2020年の7月に出た雑誌への寄稿を、「コロナでも始まった歴史修正主義」という節タイトルで始めたことがある。同年4~5月の(最初の)緊急事態宣言が明け、その当否の検証が盛んだった頃だ。
池田信夫氏のJBpress(2020.5.15)より
統計が示すように、①新型コロナウィルスへの感染は緊急事態宣言の前からピークアウトしており、②宣言の前後で減少のスピードも変わらないので、「みんなが宣言に従って自粛したから」コロナが収束した、という言明は虚偽だ。政治家が述べようが「専門家」が述べようが、そうした過去の粉飾は(悪しき)歴史修正主義にあたる。
ところが現実には、なんら根拠を示さず「国民が自粛に協力してコロナを抑えた」とする理解を安倍晋三首相が表明し、便乗して「民度が高い日本人」を賛美する風潮が生まれている。これは実際のデータではなく、「国民の耳に心地よく響くかどうか」で過去の解釈を決めているわけですから、まさしく定義どおりの〝歴史修正主義〟と呼ぶべきでしょう。
『歴史なき時代に』260-1頁
強調は今回付与
(初出『Voice』2020年8月号)
なぜ歴史の修正を「専門家」が試みるかというと、コロナの収束が宣言のおかげでなければ自分がまちがえたことになって、格好がつかないからである。真にしょうもない次第だが、その悪癖は近ごろ、2022年に始まったウクライナ戦争のセンモンカにも感染し始めたらしく、
5月24日
(枠線は引用者)
……と、同戦争の解説者だった東野篤子氏は、述べている。その検証には、統計すら要らない。
国際政治ch「関西風のロシア・ウクライナ停戦論」
東野篤子(シャンパングラスを前に)
「私よく言ってるのが、ロシアは池乃めだか的に終わってほしいっていう、もうボコボコになって『これぐらいにしといたるわ!』みたいな(聞き手の笑い)。それぐらいしかロシアの矜持は保てないと思うんですよ、本気で私はそれ思ってるんですよね。
やろうとしたことをやれなかったし、何なら後退したかもしれない、だけどもうボコボコになってまでも『こんぐらいにしといたるわ』って言えなきゃ、やっぱりロシアは終われないと思うんですよ」
2023.3.31のダイジェスト動画より
(ヘッダー写真も同じ)
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ロシアを「ボコボコにする」とは、日本語では圧勝するという意味だ。とはいえこの程度の、信者的なファンとの内輪ノリの会話なら、「鍵の中でやったらどうですか?」で済むのかもしれない。
しかしながら、それでは済まない修正もある。
以下の写真は、東野氏自身が「『朝雲』の5月のコラムです」として、Twitterで拡散している文章だ(全文がリンク先で読める)。意図的か無自覚かは措いて、右隅の箇所には安全保障上、放置できない歴史の修正がある。
5月20日の東野氏ツイートより
22年2月の開戦当初に、日本の識者の一部が「ウクライナは降伏を」と唱えたのは事実である。しかし、それが「幅を利かせて」いたかは疑問で、むしろ批判を集め炎上していたのが実態だろう(私も批判した)。
より大きな問題は、とにかく戦闘停止を優先すべきとする「即時停戦論」の内容を、東野氏が「ロシアに全面降伏して事態を収めるべき」なる議論と、混淆させて記述している点だ。あたりまえだが、停戦と降伏は違う。
たとえば米国副大統領のJ.D.ヴァンスは、議員時代からの「即時停戦論」の持ち主とも呼べるが、それは兵力を引き離し現状で前線を固定するという意味で、降伏しろと言っているのではない。
ウクライナとの直接交渉を再開した「侵略国」ロシアですら、さすがに交渉による停戦と、降伏とは別のものとして区別している。
メドベージェフ前大統領は20日、西部サンクトペテルブルクで講演。ロシアがウクライナに「交渉」を繰り返し呼びかけてきたとした上で、「キエフ(ウクライナの首都キーウ)の政権にはもう一つの道がある。無条件降伏への道だ」と語った。
なぜ東野氏による「全面降伏」と「即時停戦」の混同が、安全保障の上で問題かというと、このコラムを載せた『朝雲』が防衛省・自衛隊の専門紙だからである。現在の形態としては民間の新聞だが、創刊時は警察予備隊の機関誌で、いまも防衛研究所と提携した連載を持つ。
繰り返すが、停戦と降伏は異なる。両者を弁別できず、勝てないから「停戦すべきだ」とする主張を、お前は侵略者に「降伏しろというのか!」と聞き違える読者を防衛省や自衛隊の周囲に育てることは、有事に国民の生命を守る上で、きわめて大きなリスクだ。
防衛研究所に属する「専門家」がTVに連日露出したのも(私の知っている人もいる)、ウクライナ以前には見られない現象だった。戦争の初期には、それが「政府とメディアの一体化」をもたらさないよう、ルールの策定が必要とする議論も聞かれたが、なし崩しになりめっきり耳にしない。
あたりまえだが、専門知を提供すること自体が悪いのではない。戦況のよい時は「ボコボコにする」、悪化するや「圧勝するとは言ってない」と発言を翻し責任を取らないセンモンカや、定見なく政府の広報と一体化して疑問を感じないメディアの、意識の低さが悪いのである。
2021年3月、すでにコロナで生じていた同種の現象を批判して、私はこう記した。ウクライナで実際に戦争が始まるより、1年近く前のことだ。
平成期に、わが国は自衛隊をイラク戦争に派遣した(2003~2009年)。もしこのとき、「戦争は軍事の専門家の仕事であり、武官たる自衛官が専門知に基づきすべての妥当性を判断する。素人はケチをつけずに黙っていろ」などと唱える人がいたら、とんでもない軍国主義者として糾弾されたことだろう。
ところが「ウイルスとの戦争」に喩える人も少なくない、令和のコロナ禍では、「感染症の専門家が、8割削減やゼロコロナを主張しているのだ。黙って自粛に協力しろ」とする風潮が、あたかも知的な態度であるかのように蔓延した。
現代ビジネス(2021.3.3)
ここまで見通していた私には、そもそも過去を修正する必要がないのだが、いま大切なのはそこではない。次の著書になる『専門家批判』の執筆も始まり、センモンカが素材を増やしてくれるのも歓迎だけど、もちろんそれも第一義ではない。
重要なのは、まちがえても訂正できる真摯さであり、それを欠き嘘を吐く者に「戦争を扱わせない」ことである。歴史が教える教訓のうち、これのみが常に真実であり、けっして修正は起きえない。
参考記事:
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年5月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。