認知戦とは何か。どのように始まり、どのように拡大するのか。日本の社会をどのように操作しようとしているのか。台湾の事例を踏まえて、すべてを明らかにする。
2018年関空水没と台湾の関係
参院選にロシアが介入していると知られるなど、認知戦が注目されている。しかし、認知戦とは何か正しく理解している人は少ない。
認知戦の成功例かつ典型例だったのが、2018年の台湾世論を沸騰させ死者まで出た「台湾旅行者を救った中国」という作り話だった。
2018年9月4日、台風21号が関西に上陸した。関西空港が水没し、数多くの旅行者が空港内に取り残された。ここに脱出用のバスがやってくると、台湾人と思しきSNSアカウントが「中国が脱出用のバスを用意してくれた」と投稿した。続いて、「台湾人も乗れるのかと運転手に聞くと、台湾人も中国人と認めるなら乗っても良い」と言われたと体験談が投稿された。
その後、「自国民を救おうとしない無能な台湾政府」「領事館は何もしていない」「台湾の外交官はクズばかり」といった政府を批判する投稿がSNS上に溢れ、野党の政治家まで火に油を注ぐ発言をした。こうした状況を中国の国有メディアが、SNSの投稿を紹介しながら報道し、この報道が台湾に流入した。
政府と領事館の責任を問う声が際限なく膨れ上がり、追い詰められながらも事態の収拾に追われていた蘇啓誠・大阪弁事処処長が14日に自らの命を絶った。
だが、SNSを覆い尽くした関空救出譚はすべて嘘だった。
脱出用のバスを用意したのは関西空港を運営する関西エアポートで、中国政府ではなかった。そもそも救出用バスを中国人が運転していたかのようなSNSでの証言があり得ないものだったが、興奮した台湾の人々はおかしさに気付かなかったか、気付いて声を上げても圧倒的多数の政権批判によってかき消されてしまった。
蘇啓誠処長だけが糾弾されたのではなかった。蔡英文総統も集中砲火を浴び、その後の地方選挙では関空救出譚が蒸し返されて民進党が大敗した。
関空での出来事から民進党の大敗までを検証した台湾の国防安全保障研究所と、中央研究院ヨーロッパ・アメリカ研究所の研究者は、論文で中国が仕掛けた認知戦だったと結論づけている。
中国共産党がSNSへのデマ投稿をきっかけに興奮した人々を焚き付けて、怒りの矛先として蘇啓誠処長と蔡英文総統と民進党を指し示したことで、モラル・パニックが発生した。人々は外交官と総統と政権を、社会秩序への脅威と信じ込んだのである。
認知戦の構造
関空救出譚から認知戦とはどのようなものか、その基本骨格を明らかにする。
認知戦は放火犯のようなものと誤解されている。A国がB国に認知戦を仕掛けるとき、火の気がないところでマッチを擦るように、誤った情報をB国に送り込むという誤解だ。
だが実際の認知戦は、B国に火種を発見したA国が、その火種に向かって薪をくべて、様子を見ながら薪の量を増減する様子に例えられる。
認知戦への誤解と実際
関空救出譚の場合も、火種は台湾国内にあった。台湾には、独立した国家を志向する人々と、中国との一体化を求める人々がいる。SNSに投稿された関空救出譚の中国賛美投稿は、親中国の台湾人(と思しき人物)が吹聴したデマだった。この種火を中国共産党が激しく燃え上がらせて政権批判に誘導し、地方選で再燃させたのである。
ではデマを吹聴したり、騒ぎを過熱させた人々は、中国共産党から金銭を受け取っていた工作員なのだろうか。
台湾には中国共産党配下の職業的工作員がいるほか、中国大陸とのビジネスで恩恵を受けようと考えて親中国・反独立の言動をとる人や、前述した中国との一体化を進めたい政治家がいる。もちろんこれらの人々も認知戦に関与しているが、関空救出譚に限らず、認知戦で情報を拡散したり、デマからデマを生み出したり、デマを元に誹謗中傷を行った中心人物はインフルエンサーとフォロワーであり、その多くが匿名の人々だった。
インフルエンサーの生態は世界共通で、投稿がSNSなどで話題の中心になるいわゆる「バズり」で承認欲求を満たし、バズれば何らかの方法で収益化がはかどり報酬が増えるのを期待する。場合によっては、SNSの有名人からステップアップしてジャーナリストや専門家と呼ばれたいと願う人もいるだろう。
認知戦はインフルエンサーが情報を拡散
インフルエンサーとは、単にフォロワーが多い人たちではない。それが認知戦への加担か否か問わず、紹介する情報がデマか真実か問わず、得意分野の火種を消えないように温存している人たちであり、絶好の機会を逃さず情報を元に人々の感情を発火させる人たちだ。
認知戦を仕掛ける国家や集団も、インフルエンサーや世論の動向を虎視眈々と観察している。こうして日常的に、スマホの中で認知戦が続いているのだ。
認知戦は絶好の機会を見計らって人々の感情を発火させる
日本において認知戦が意識された最初の事例である、ALPS処理水放出前後の様子を振り返ってみよう。
福島第一原発のALPS処理水放出をめぐっては、処理水を汚染水と呼ぶマスコミと政治家、活動家、インフルエンサーが放出の日程が明らかになる前からいた。これらの情報源をフォローしている人々もいた。これが話題の火種で、彼らは火種が消えないように発言を続け、放出日が近づくと活動を活発化させた。
日本国内の動向と連動して中国共産党と国営メディアはたびたび事実を歪曲し、デマを流布させ、日本の反原発運動が温存していた火種に「薪」を提供した。この動きは日本に対しての認知戦であっただけでなく、中国国内の世論に影響を与える情報戦でもあり、中国人の反日感情を高めた。
このとき中国共産党と国営メディアがプロパガンダで扱った話題のほとんどが、日本国内でくすぶっていた出来事や、国内の政治家や活動家が発信していた情報を元にしたものだった。たとえば「老人と海」と題したものは、実在する放出反対派の漁師を彷彿とさせる表現だった。
国内には処理水を「飲めるものなら飲んでみろ」と訴える定番のやりとりがあったが、このとき引用されていた2011年10月に低濃度汚染水を浄化した水を飲んで安全性をアピールした園田康博氏のエピソードもデマに利用された。
中国共産党と国営メディアが流した「汚染水」プロパガンダの数々と中国人の反応
放出日の前後は、政治家と活動家を含む国内のインフルエンサーだけでなく、影響力が小さい一般人も中国の国営メディアの報道や報道で使用された図像のほか、中国の一般人が描いた模式図を転載して、汚染水放出反対と政権批判を繰り返した。
以上がALPS処理水放出前後の様子で、火種の扱いから情報の流れまで認知戦の典型例だったと言ってよいだろう。しかも認知戦が日中間だけでなく、韓国にも飛び火して、日韓でプロパガンダの相互利用が行われるに至った。
処理水放出時の認知戦ではプロパガンダの相互利用が行われた
認知戦は愛国心と一緒にやってくる
認知戦は国家から他の国家へ仕掛けるものとは限らない情報戦だ。
鈴木エイト氏と紀藤正樹氏が着火した統一教会糾弾で、統一教会は反日的であると世論が盛り上がったのは記憶に新しい。この反日的という言い回しと、言い回しによって愛国心が刺激された現象は、国家間の認知戦を考えるとき忘れてはならないポイントである。
鈴木エイト氏はワイドショーなどで自民党政権と保守層を統一教会とからめて批判している。紀藤正樹氏はスパイ防止法に反対するだけでなく共産党東京都委員会に献金するほどの筋金入りの左翼的立ち位置の人物だ。彼らだけでなく、有田芳生氏ほか左翼またはリベラル政党の議員や支持者も、保守層に向けて秋波を送るかのように統一教会が反日的であると愛国心を煽っている。
これから紹介する、中国から台湾に仕掛けられた、反台湾勢力の黒幕が蔡英文総統であるとして愛国心を動揺させた認知戦を知ると、鈴木エイト氏や紀藤正樹氏だけでなく、深田萌絵氏やロッシェル・カップ氏の発言を連想する人がいるかもしれない。
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以降、
・どうやっても認知戦は避けられない
続きはnoteにて。
編集部より:この記事は加藤文宏氏のnote 2025年7月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は加藤文宏氏のnoteをご覧ください。