顧問・麗澤大学特別教授 古森 義久
米国のトランプ大統領が核兵器搭載の潜水艦2隻をロシア領土に近い位置に移動することを命令した。この8月1日のことである。この命令はロシア側の挑戦的な核の脅しに対する抑止の手段とされた。
だが最悪の場合、米国とロシアとの核戦争をも想起させるトランプ大統領のこの措置にこそ、現在のトランプ陣営の「力による平和」という原則が象徴されたといえる。軍事力の脅しに対して「対話」や「外交」を唱える米国リベラル派や、無抵抗平和主義の日本の融和派とは対照的な基本戦略だといえる。
今回の危険きわまる核攻撃の示唆談義はそもそもロシア側のドミートリ―・メドベージェフ前大統領の挑発的な発信が契機だった。メドベージェフ氏はプーチン氏の側近で、2008年から2012年までロシア連邦の大統領をも務めた政治家。現在はロシアの国家安全保障会議の副議長というポストにあるが、実権はほとんど与えられていないという。ただしプーチン政権を代弁するような形でときおり過激な発言をすることがある。
今回メドベージェフ氏は米国のトランプ大統領がロシアがウクライナ戦争の停戦に応じないことを理由にロシアへの経済制裁などをさらに厳しくすると言明したことに反発するメッセージを発した。
7月31日にソシアルメディアを通じて出されたそのメッセージは次のような内容だった。
「トランプ大統領は黙示録的なテレビドラマの『ウォーキング・デッド』の光景を想い浮かべるべきだ。そして『デッド・ハンド』についても考えるべきだ」
この「ウォーキング・デッド」というのは2010年頃から10年ほども米国で大人気を博したテレビドラマで、世界が核戦争の後のように、破壊し尽くされた光景からドラマが始まる。「黙示録」という言葉も核戦争の後のような世界の激変を示唆する。さらにまた「デッド・ハンド」というのはロシアの核戦力のなかで自動的に報復する核攻撃システムを指していた。だからこのメドベージェフ氏の発信は明らかにトランプ大統領に対してロシアの核戦力の威力を強調して、圧力をかけるという核の脅しだといえた。
トランプ大統領はこの脅しに対して翌日の発信で対抗措置を発表したのだった。その内容は以下のようだった。
「ロシアのメドベージェフ前大統領のきわめて挑発的な発信に対して私は米軍の原子力潜水艦2隻をより適切な地域に移動することを命令した。ロシア側のメドベージェフ氏の愚かで煽情的なコメントが単なる言葉以上であるかもしれない場合に備えての措置だ。言葉というのは重要であり、時には不用意な言葉が意図しない事態を招くことがある。今回の言葉がそんな事例ではないことを望む」
以上のメッセージで「より適切な地域」というのはもちろん最悪の事態でロシアの中枢部に米軍の原子力潜水艦から核ミサイルを撃ち込むのにより便利な地域、という意味だった。だからロシア側からの核の脅しに対して、核ミサイル装備の潜水艦の移動という、同様の核の脅しで対応したわけである。核の脅威を同様の核の脅威で抑えるという核抑止の戦術、戦略だといえる。
この言葉のやり取りに対して、ロシア政府も8月4日に「この種の言葉のやりとりはきわめて危険であり、相互の抑制を必要とする」という骨子の声明を出した。
一方、トランプ大統領の今回の対応は侵略の抑止や平和の保持には実際の力の行使、あるいはその行使への言及が必要だとするトランプ陣営の年来の「力による平和」という戦略思考の表われだといえる。同じ米国の政権でも民主党リベラル派のバイデン前政権では到底考えられない対応だった。
だから同じ米国でも政権の交代により対外政策や国際安全保障政策が根幹から異なるという現実の例証だともいえる。日本側でも少なくともその米国の安全保障政策の動きを正確に知っておくことが不可欠だろう。
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古森 義久(Komori Yoshihisa)
1963年、慶應義塾大学卒業後、毎日新聞入社。1972年から南ベトナムのサイゴン特派員。1975年、サイゴン支局長。1976年、ワシントン特派員。1987年、毎日新聞を退社し、産経新聞に入社。ロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長、ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員などを歴任。現在、JFSS顧問。産経新聞ワシントン駐在客員特派員。麗澤大学特別教授。著書に『新型コロナウイルスが世界を滅ぼす』『米中激突と日本の針路』ほか多数。
編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2025年8月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。