「おこぼれにありつきたい野党」の違和感

参議院選挙で与党が大敗し、衆参両院で過半数を失った石破政権。通常であれば野党が総攻撃を仕掛けて政権交代を目指すはずの局面だが、実際に起きているのは全く異なる光景だ。

この奇妙な構図に多くの国民が感じる「違和感」や「気持ち悪さ」は一体何なのか。日本の政治が抱える深刻な病理を探ってみたい。

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野党が与党を支える奇妙な構図

衆議院予算委員会の構成は与党24、野党26と完全に逆転している。本来なら野党が主導権を握り、政府を厳しく追及できる絶好の機会のはずだが動きが鈍い。野党は石破政権を支持しているわけではないが、延命させることで自らの政治的利益を最大化しようとしているのが現実である。

弱い相手を維持したい思惑

政治の世界では「敵は強すぎても弱すぎてもいけない」という格言がある。石破首相が退陣したところで、次のリーダーの政治的求心力がそれほど強くないとの見方が支配的だろう。

野党にとって、弱体化した石破政権の方が交渉で有利な立場に立てるという冷徹な計算が働いている。強力なリーダーが登場すれば、野党は再び劣勢に回る可能性が高いからだ。それならば現在の「操りやすい」石破政権を維持し、政策面で最大限の譲歩を引き出す方が得策だという判断なのだろう。

政策の「つまみ食い」戦略

国民民主党の玉木雄一郎代表は「年収の壁」見直しやガソリン暫定税率廃止の実現を最優先課題として掲げている。これらの政策を実現するために、政権交代という大きなリスクを負う必要があるだろうか。答えは明らかに「ノー」だ。

弱った政権から個別政策だけを切り取って実現させる「いいとこ取り」戦略の方が、はるかに効率的で確実性が高い。政権を取れば全ての政策に責任を負わなければならないが、野党のままなら自分たちが重視する政策だけに集中できる。まさに「おこぼれにありつく」戦略と言えるだろう。

責任回避の構造

さらに深刻なのは、野党間でも意見集約が困難で、現状維持の方が都合が良いという状況だ。立憲民主党、国民民主党、日本維新の会、参政党など、それぞれが異なる政策理念を持っており、統一的な政権構想を描くことは極めて困難だ。

政権を取るということは、経済政策、外交・安全保障、社会保障など全ての分野で一貫した方針を示し、その結果に責任を負うことを意味する。しかし現在の野党には、そうした覚悟も準備も見当たらない。野党のまま影響力を行使する方が、よほど楽で安全な選択肢なのだ。

国民が感じる「気持ち悪さ」の正体

最も深刻な問題は、野党の建前と本音が完全に乖離していることだ。選挙期間中は「政権交代」「政治の刷新」を声高に叫んでおきながら、いざ政権が弱体化すると、首相指名選挙で自党代表の名前を書くなど、実質的な与党延命工作に走る。

この二枚舌は、有権者に対する背信行為だ。国民は政治の変化を期待して野党に投票したのに、実際は既存の権力構造を温存する結果になっている。

石破首相は記者会見で「その都度、適切な判断をしていく」という曖昧な答弁を繰り返している。一方で野党も、政権交代への明確な道筋や時間軸を示そうとしない。

結局のところ、与野党問わず政治家たちが最も重視しているのは自己保身だ。国家の将来や国民の生活よりも、自分たちの政治的地位や利権の確保を優先している構図が透けて見える。

現在の日本政治は、野党が「政権交代の責任を負わず、政策のおこぼれだけもらう」という最も楽な立場を選択している状況だ。本来の民主政治における野党の役割—政権への対峙、代替案提示、政権交代への準備—を完全に放棄し、弱った政権から利益を引き出すことに専念している。

石破政権の行方がどうなろうと、この根本的な政治の劣化が改善されない限り、国民の政治不信は深まるばかりだ。真の政治改革とは、制度いじりではなく、政治家一人ひとりの意識改革から始まるのかもしれない。

しかし現状を見る限り、その兆しは全く見えてこない。これこそが現在の日本政治に対する最大の「気持ち悪さ」の正体なのである。

尾藤 克之(コラムニスト・著述家)

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