ポツダム宣言(以下、宣言)は、その作成過程や体裁、公表の仕方や受諾に至る経過などを詳しく調べると、刻々と変化する状況と各国関係者の思惑とが錯綜した、極めて特異なものだったと判る。先に結論を言えば、日本がそれを直ぐに受諾しないように、言い換えれば、原爆投下後に降服するように、トルーマン米大統領とバーンズ国務長官によって仕掛けが施されていたと知れるのである。
そこで本稿では、前編で宣言の作成・公表から日本の受諾に至るまでの過程を追い、後編では宣言に施された仕掛けを探ってみることにする。なお、日時は米国東部戦時時間EWT及び日本標準時JSTとするが、一部に時差の混淆があるかも知れない。
1945年8月14日、ホワイトハウスにて日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン米国大統領
Wikipediaより
日本は短波放送で宣言を知った
1)発表 1945年7月26日21時20分(JST7月27日午前4時20分)
宣言の発表は、ポツダムの米国代表団宿舎において報道陣に対してなされたが、日本への送達は中立国などの公式ルートを通じて行われたのではなかった。米国国内へもホワイトハウスや国務省宛にではなく、戦争の広告宣伝を担当するOWI:戦時情報局に送られ、そこから米国内の各政府機関や報道に対して流されるという極めて異例なものであった。
2)日本側の認知(JST1945年7月27日午前6時頃)
日本側は、OWIが各基地の短波送信機を使ってJST27日午前5時から開始した放送を、外務省情報室が同日午前6時頃に傍受して宣言を知った。このことにも、日本をして宣言を重要な通牒ではなく、単なる宣伝の一つとして軽視させたい米国の思惑が垣間見える。
これ以降、鈴木貫太郎首相がこれを「黙殺」したことが原爆投下に繋がったとの、誤った言説が人口に膾炙する約2週間の時が流れるのだが、これも米国の計算通りであったと思われる。その間に日本国内では宣言受諾の可否に関し、「国体の護持」を巡って激しい議論が展開された。
3)鈴木首相の会見と新聞報道(JST1945年7月28日午後)
この時の首相発言の正確な記録は残っておらず、あるのは新聞報道と鈴木本人及び周辺の者らの回想記録のみである。政府は27日と28日に報道機関に対し、「論説不可、個々の条件の内容是非論議不可、但し、日本の名誉と存在に触れる点については、反駁、冷笑は可」といった趣旨の縛りをかけた。
これを受けた28日の朝刊各紙、例えば『朝日新聞』は「米、英、重慶 日本降伏の最後条件を声明、三国共同の暴力放送」「政府は黙殺」「多分に宣伝と対日威嚇」との見出しを付けた。後年、鈴木首相は「この宣言は重視する要なきものと思う(と言った)」と回想記に書き、常に近くにいた同盟通信海外局長の長谷川才次も「総理ははっきりしたことは何も言われなかった」と回想録に記している。
日本の報道を注視していた米国の反応はと言えば、トルーマンは回想録に「7月28日の東京放送は、日本政府が戦いを継続する意向であると発表した。米国、英国、中国が共同で出した最後通告への正式回答ではなかった」と記している。この時点で日本側は「この宣言は重視する要なきもの」と考えていたのだから、トルーマンが「正式回答ではなかった」と書くのも当然であった。
4)日本の回答(JST1945年8月10日。以下もJST)
異例な発表方法から当初は「重視する要なきものと思う」していた宣言を日本が受諾するに至った理由は、原爆投下とソ連の参戦である。日時は前者が、6日午前8時15分の広島と9日午前11時2分の長崎、後者が8日未明であり、「聖断」は9日午後11時から始まった御前会議で、日付が変わった午前二時過ぎに下された。
原爆とソ連のどちらが「聖断」に引導したのかという議論がある。筆者は、最後まで望みをかけていたソ連の和平仲介に対し、8日午後5時に宣戦布告を以って回答がなされ、同日未明に満州と北朝鮮に赤軍が押し寄せたことの影響がより大きかったと考える。6日の広島への「新型爆弾」では動かなかったし、爆撃という意味では2月の東京大空襲を始め、全国の主要都市が連日空襲に遭っていたからだ。
翌10日、スイス日本大使館から米国側にスイス政府を経由して以下の内容が伝えられた。すなわち宣言の第12条「前記の諸目的か達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう」という文言につき、次のように解釈する前提の下で受け入れる旨、日本側は回答した。(以下は「FRUS」の英語原文の拙訳。太字も筆者)
「日本国政府は、米国、英国および中国の首脳によって、ポツダムにおいて1945年7月26日に発せられ、そして後にソ連政府によって署名された、その共同宣言の中に列挙された前提を、その宣言が、統治者としての天皇陛下の大権を損なういかなる要求も含んでいないと了解して、受け入れる用意がある。」
5)米国からの日本側回答への返答:バーンズ回答(JST8月11日)
日本側はJST12日午前零時45分、米国ラジオ放送によってバーンズ回答の内容を知った(スイス政府から日本政府に送達された時刻は不詳)。が、以下の内容を含むため、軍など徹底抗戦派は拒否を求めた。最終的にここで外務省が歴史的な意訳をしたことで、受け入れ、となった。
「降伏の時点から、天皇および国を治める日本国政府の権限は、降伏条件を適切に実施する義務を有する者として行動する連合国最高司令官に従属する(subject to)。」(略)「日本政府の究極の形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明せる意志によって設立される。」
外務次官松本俊一は、この「従属する(subject to)」という部分を「制限の下に置かれる」と意図的に表現を和らげて翻訳し、東郷外相の承認を得て外務省の正式訳文として天皇の裁可を仰いだ。即ち「降伏のときから天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件を実施するため、その必要を認むる措置をとる連合国最高司令官の制限のもとに置かれるものとする。」と。
6)日本政府に対する通知(8月11日)
追ってバーンズ国務長官からスイス政府経由で、以下の通知が日本に対してなされた。バーンズは、ポツダム宣言と11日付の「バーンズ回答」が、日本側に受け入れられたとの前提で事を運んでいる。
「米国政府、中国、英国およびソ連を代表して私が、貴兄を通じて日本国政府に8月11日に送った通信に対する、ポツダム宣言および1945年8月11日の私の声明の完全な受け入れとして私が見做すところの、日本政府の回答を送達する本日付の貴兄の通信に関して、米国大統領が、次の声明書が日本国に送達するために貴兄に送られることを指示したことを貴兄に報告することを私は光栄に思います。」
7)日本の最終受諾(JST8月14日)
日本政府は、8月14日にスイス政府を通じて宣言受諾を連合国側に通知した。スイス政府による米国への通知の書き出しは次のようである。これに続く日本政府の表明の詳細は省略するが、「天皇の権限」に関する特段の言及はない。
「日本国政府は、彼らが最も切望しているポツダム宣言の条項の確実な履行に関して、米国、英国、中国およびソ連各政府に声明することをお許し願いたいと望んでいます。このことは署名の時点になされるでありましょう。しかし適切な機会が得られないことを危惧して、彼らは失礼を顧みず、スイス政府の善良な政権を通じて、四強国政府に表明しています。」
書き換えられたグルーの宣言草案
話が前後するが、米国側の宣言文案の策定過程を少し詳細に追ってみる。
1945年に入る頃には、欧州だけでなく太平洋の戦線もほぼ帰趨が決していたので、米英ソ首脳は、2月4日から11日までクリミア半島のヤルタに会した。議題はドイツ降伏までの最終計画や欧州の戦後計画、国連会議の日程などを主とし、加えてドイツ降伏後2~3カ月以内にソ連が日本に参戦するとの密約(ヤルタ密約)もなされた。
密約など知る由もない日本はソ連の和平仲介に望みをかけ、天皇親書を携えた近衛文麿公の訪ソを7月に決め、佐藤尚武駐ソ大使を通じ再三申し入れた。が、東郷茂徳外相と佐藤大使との外交暗号のやり取りを傍受解読していた米国の関心事は、原爆完成が近いこともあり、専ら日本降伏の時期にあった。
(後編に続く)
【参考文献】
「パル判決書 上下」(東京裁判研究会 講談社学術文庫)
「私の見た東京裁判 上下」(冨士信夫 講談社学術文庫)
「滞在十年 上下」(ジョセフ・グルー ちくま学芸文庫)
「なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか」(日高義樹 PHP研究所)
「昭和二十年 第一部・12」(鳥居民 草思社)
「アメリカの鏡・日本」(ヘレン・ミアーズ 角川学芸出版)
「ヤルタ-戦後史の起点」(藤村信 岩波書店)
「ポツダム会談」(チャールズ・ミー 徳間書店)
「トルーマン回顧録 ⅠⅡ」(恒文社)
「ヘンリー・スティムソン回顧録 上下」(国書刊行会)
「ホワイトハウス日記1945-1950」(イーブン・エアーズ 平凡社)
「鈴木貫太郎自伝」(中公クラシックス)
「宰相 鈴木貫太郎」(小堀桂一郎 文春文庫)
「黙殺 上下」(仲晃 日本放送出版協会)
「戦後秘史 ②天皇と原子爆弾」(大森実 講談社)
「日本人はなぜ終戦の日付をまちがえたのか」(色摩力夫 黙出版)
「朝鮮終戦の記録」(森田芳夫 厳南堂書店)
「GHQ歴史課陳述録 終戦史資料 上」(原書房)
「Foreign Relations of the United States(FRUS): Diplomatic Papers, Potsdam/Yalta」