38度線はこうして引かれた:朝鮮半島分断小史

高橋 克己

米朝首脳会合でも注目された38度線の歴史を本稿で振り返る(White House/flickr:編集部)

朝鮮総督府職員として終戦時から日本人引揚者の聞き取りを続けた森田芳夫(1910-1992)は、その労作「朝鮮終戦の記録」(厳南堂書店・1964年8月15日第一刷)でソ連軍の朝鮮侵攻の様子を次のように書いていて、ソ連軍が満州と朝鮮に同時に侵攻していたと判る。

1945年8月8日午後11時50分、朝鮮人の一団約80名がソ連軍と共に快速艇に乗って豆満江を渡り、土塁に来襲した。ここはソ連領土を指呼の間に望むところである。まず土塁の警察駐在所が襲撃された。

欧州戦の終息を見越した米英ソ首脳は45年2月にヤルタで戦後体制を談じ、ドイツ降伏の2~3ヵ月後に対日参戦するとのスターリン密約(42年8月のハリマン米駐ソ大使・チャーチル・スターリン会談が端緒)も確認した。5月8日にドイツが降伏するや、スターリンは日ソ中立条約を破ってシベリア鉄道をフル稼働し、欧州の赤軍を極東に集めた。

ヤルタ会談で記念撮影したチャーチル、ルーズベルト、スターリン(Wikipedia)

が、その春から日米停戦の仲介をソ連に依頼していたとはいえ、日本もソ連を完全に信用していた訳ではない。当時、内地の命綱だった満州産農産物を北朝鮮の羅津、雄基、清津から海上輸送していた日本軍は、ソ連の侵攻に備えて荷揚げ能力を4倍の一日12千トンまで高め、3港にうず高く積んでいた。

沖縄が落ち7月に入って、3港にもB29が夜11時一日おきに来襲し爆弾や機雷を投下した。日本軍は物資輸送を8月上旬までに終えるべく、羅津に17隻、雄基に18隻、清津に12隻を集結させていたところ、8日には常より55分遅く爆撃を受けた。それこそソ連機による初の空襲だった(森田前掲書)。

戦後の朝鮮取扱いの原則を、連合国は大西洋憲章(41年8月)の「領土不拡大」に置き、カイロ宣言(43年12月)に以下のように謳った。ポツダム宣言(45年7月)にも「カイロ宣言は履行され」るとある。ただし、朝鮮独立は米国の提案した信託統治の後、というのが共通認識だった。

朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて(in due course)朝鮮を自由かつ独立のものたらしむるの決意を有す。

李承晩(Wikipedia)

日韓併合の翌年から米国に亡命し、19年には大韓民国臨時政府駐米委員会代表を称した李承晩は、41年12月に日米開戦を知るや、対日強硬派の米国務省顧問ホーンベックに「朝鮮人は米国側に立ち、戦う機会を求めている」、「武器貸与法で支援してくれれば対日戦に協力したい」との書簡を出した。

米国は朝鮮の状況を調べた。が、臨時政府とは名ばかりで、重慶の朝鮮人200人ほどが政治的主張ではなく個人的な繋がりで分派を作り、それらが絶えず抗争を繰り返していたと知る。結果、臨時政府承認をせず列強の態度を見極めることとし、書簡を返送した(「朝鮮現代史の岐路」李景珉)。

米国は42年2月にも、朝鮮に駐在経験があるラングトン(後にホッジ朝鮮軍政長官顧問)を中心に「朝鮮独立問題の諸相」をまとめた。そこにはこうある(李前掲書から一部を要約)。

長年、朝鮮人には自治の経験がなく、断固たる態度で自己防衛の意思を示したこともない。近代的経営に熟達している者もいない。自分たちの力で政府を樹立し、外国の侵略から国を防衛してゆくには、少なくとも今後一世代の時間が必要で、その間は何らかの保護措置がとられねばならない。

これらの経緯から米国務省で信託統治が論議され、カイロで揉まれて宣言の「in due course」の一節となった。従って「in due course」とは信託統治の後を意味し、その期間をローズベルトはフィリピンの例から40年とも50年ともしていた。これが後々物議の醸すのだが訳は次の機会に譲る。

ポツダムで米国は朝鮮独立までを、連合軍による軍事占領期、米中ソによる信託統治期、独立の3段階で構想していた。が、日本は8月10日にポツダム宣言の受諾(参照拙稿:終戦秘話①原爆投下の時間稼ぎだったポツダム宣言)を伝えて来た。それが予想より半年以上早かったのは、関東上陸(コロネット)作戦が46年春だったことからも知れる。

ポツダムで会談するチャーチル、ルーズベルト、スターリンの英米ソ3首脳(Wikipedia)

慌てた米国は英中抜きで日本軍の降伏先を定める「一般命令第一号」を作成、8月15日にソ連に提案した。スターリンは朝鮮には触れずに千島と北海道北半分に言及、トルーマンは北海道を峻拒した。信託統治案は生きていたものの、これで38度線を境とする朝鮮分断が実質的に決まった。

その38度線が決められる経緯の一部が米外交関係文書サイトFRUSの50年7月12日付メモで読める。それは当時の極東担当国務次官ディーン・ラスクによる、歴史政策研究部長G.ノーブルからの朝鮮38度線に関する質問への回答だ(拙訳を要約)。

私は38度線誕生の「目撃者」だ。突然の日本降伏で国務省はマッカーサー将軍への命令と日本降伏に関する同盟国との取り決めの検討を強いられた。国務(ダン)・陸軍(マックロイ)・海軍(バード)の三省調整委員会(SWNCC)の3氏は8月11日深夜、日本の降伏を受けるための取り決めを議論した。バーンズ国務長官は極力北方で米軍が降伏を受けるよう提案したが、利用可能な米軍の兵員不足とソ連軍が入る前にその地域まで到達することの困難に直面した。

軍事能力を大幅に超える提案をソ連が受け入れる可能性は低かった。 マックロイはボンスチール大佐と私(陸軍省参謀本部大佐)を隣室に呼び、国務省の要求を調和させる案を考えるよう求めた。米軍が到達できるよりも北の38度線を推したのは、米国の責任範囲に首都を含めることが重要と感じたからだ。提案した38度線が国際的に合意された。当時、私はソ連が38度線を受け入れたことに驚いた。軍事的立場を考えれば、もっと南を主張するかも知れないと思ったからだ。

55年8月に上梓された「トルーマン回顧録」(恒文社)にも同様の記述がある。おそらくトルーマンはラスクの話を「回顧録」に書いたのだろう。が、トルーマンはラスク回想にはない極めて重要なことを書いている。

朝鮮における占領地帯の境界線については、スターリンから私への、またアントノフからマッカーサーへの、そしてソ連からの一切の通信連絡にしても触れていなかった。後年非常な大問題として浮かび出る運命を持った38度線は、彼我双方で論争もされず、また取引の種ともならなかった。

もちろんその当時、日本軍の降伏を受けるための責任の割当という以外に何も考えていなかった。朝鮮問題に関する以前の全ての討議において、ソ連は、朝鮮は独立を得る前に信託統治の下に置かれる段階を踏むべきであるということで、我が方と意見が一致していたのである。

つまり、トルーマンは38度線が朝鮮を二つに分ける国家分断線になると夢想だにしていなかった。この朝鮮問題、台中の両岸問題、そして北方領土問題と、今に至っても紛争の種を残す「一般命令第一号」は斯くも安直に決められた。それは単に武装解除の相手を決めただけのはずだったのだ。

スターリンのトルーマン宛電報(米政府サイト)

FRUSには日本の降伏先に関する45年8月17日付のスターリンからトルーマン宛の電報もある。そこには「マッカーサーの連合軍にはソ連軍も含まれるから北海道は諦める」と読める一節がある他、トルーマンからスターリンへの、千島列島に米軍基地を置く要求に関する話も書いてある。

これはトルーマンがポツダムで要求した話のようだ。電報には別途協議したい旨が記されている。が、「トルーマン回顧録」には、スターリンが千島の米軍基地は武器貸与法に好都合としつつ、アリューシャン列島にもソ連基地を設けたいといったのでこの話は没になった、との話が書いてある。

目下の北方領土交渉を彷彿させるソ連らしい抜け目なさだ。が、筆者の疑問はラスク同様に、なぜそのスターリンが38度線で了としたのかということ。その頃ホッジ中将はまだ、後に朝鮮へ進駐する米陸軍第10軍24軍団と沖縄にいて、仁川上陸はソ連に遅れること1ヵ月の9月8日だったのだ。

残念だが紙幅が尽きた。今後、日治期に外国にいた李承晩と金日成による南北朝鮮の形成経過や米ソの関わりなどを順次まとめたい。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。