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認知症治療の現場で、しばしば患者家族から聞かれる疑問があります。
「知人には効いた薬が、なぜうちの家族には効かないのでしょうか」
この素朴な疑問は、認知症治療の本質的な課題を浮き彫りにしています。

「告白します、僕は多くの認知症患者を殺しました。まちがいだらけの日本の認知症医療」(石黒伸 著)現代書林
(注)本記事で紹介する書籍には刺激的な表現が含まれますが、これは現在の認知症医療の課題を指摘するための比喩的表現です。実際の医療現場では多くの医師が患者のために尽力しています。
薬の効果に個人差が生じる理由
認知症の代表的な治療薬であるアリセプト(ドネペジル)を例に考えてみましょう。この薬は、脳内のアセチルコリンという神経伝達物質の分解を抑制することで、認知機能の改善を図ります。しかし、その効果は患者によって大きく異なります。ある患者では記憶力の改善が見られる一方、別の患者では興奮や徘徊といった副作用が前面に出ることがあります。
この違いは、複数の要因によって生じます。第一に、認知症のタイプの違いです。アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、血管性認知症など、認知症にはさまざまなタイプがあり、それぞれ病理学的メカニズムが異なります。アリセプトはアルツハイマー型には比較的効果的ですが、レビー小体型では幻覚などの精神症状を悪化させる可能性があります。
第二に、遺伝的要因があります。薬物代謝に関わる酵素の活性は個人差が大きく、同じ量の薬を服用しても、体内での濃度が人によって異なります。薬物代謝が遅い人では、通常量でも副作用が出やすくなります。
第三に、併存疾患と併用薬の影響です。高齢者の多くは複数の疾患を抱え、さまざまな薬を服用しています。これらの薬物相互作用により、認知症治療薬の効果や副作用が増強または減弱することがあります。
個別化医療実現のための具体的アプローチ
では、どのようにして個々の患者に最適な治療を見つけることができるでしょうか。まず重要なのは、「スタート・ロー、ゴー・スロー」の原則です。つまり、低用量から開始し、ゆっくりと増量していくことです。これにより、副作用を最小限に抑えながら、その患者にとっての最適用量を見つけることができます。
次に、定期的なモニタリングが欠かせません。認知機能検査だけでなく、日常生活での変化を家族が詳細に記録することが重要です。「以前より穏やかになった」「夜間の睡眠が改善した」といった小さな変化も、治療効果を評価する重要な指標となります。
また、薬物療法と非薬物療法の組み合わせも個別化の重要な要素です。音楽が好きな患者には音楽療法を、社交的な患者にはグループ活動を組み合わせることで、相乗効果が期待できます。
家族ができること
家族は、患者の最も身近な観察者として重要な役割を担います。服薬前後の変化を具体的に記録し、医師に伝えることが大切です。「薬を飲み始めてから表情が明るくなった」「午後になると落ち着きがなくなる」など、時間帯による変化も含めて観察することで、より適切な治療調整が可能になります。
認知症治療に「万能薬」は存在しません。しかし、患者一人ひとりの特性を理解し、きめ細やかな調整を行うことで、その人らしい生活を支える治療は可能です。個別化医療の実現には、医療者と家族の密接な連携が不可欠なのです。
尾藤 克之(コラムニスト・著述家)
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