かつて、大槻文彦の「言海」は、「猫」の項に、「人家二畜フ小サキ獸、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕ラフレバ畜フ、然レドモ竊盗ノ性アリ」と記述していた。
つまり、人は、鼠を捕まえる対価として、猫に餌を与えるのであって、これは一種の契約関係である。猫は、契約の主旨に従って鼠を捕ると、褒められ、契約の主旨に反して台所の魚を食べると、窃盗の罪を犯すということである。
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企業等の組織は、一つの支配の体系である。そこでは、猫の鼠捕りと同じように、所属員に対する期待行動が定義され、猫の窃盗と同じように、組織内に確立した価値秩序のもとで、ある種の行動は逸脱として、非難され批判され排除される。
組織は、所属員の行為に意味を付与する価値体系であり、価値を行為に具現化させる装置にすぎないから、所属員自体に意味を付与できないし、所属員自体を支配できない。国家は、国民の行動を規制できても、国民を支配することはできないのと同様である。
具体的な人間は、組織の内外で自由に行動するものとして存在している。その多様な行動のうち、組織が管理し得るのは、組織の価値の体系に従って抽出された一群の行動だけである。人間の自然な行動が先にあって、そこに組織の価値の体系が適用され、特定の行動が組織にとって意味のある行動として抽出され、評価されるわけである。
組織の立場からは、評価されるべき行動は、再現されるのでなければ意味をなさない。そして、行動の再現性の裏には、行動を統制する何らかの特性を想定せざるを得ない。その特性が猫の「窃盗の性」の性である。概念としての人材は、性の類型化にほかならない。そして、人間としての人材は、概念としての人材により、常に抽象化されざるを得ないわけである。
窃盗は具体的でも、「窃盗の性」は抽象化された理念である。「窃盗ノ性」は、猫を飼うことの効用ではない。本来の効用である鼠を捕る性質については、性とはいわない。猫の性は、人間の都合で猫を評価する視点から生まれたものである。性は、人間にとって都合のいい性質ではなく、その裏に付随するものである。しかし、両者は不即不離の関係にある。
実際、窃盗が上手い猫ほど、多くの鼠を捕るであろう。しかも、猫材発掘の可能性からいえば、人知れず鼠を捕る猫は発見困難で、台所の魚を盗っていく窃盗常習犯のほうが手なずけ易かろうというものである。では、組織における人材発掘も、鼠を捕る能力よりも、魚を盗る性のほうに重点を置くべきであろうか。
鼠を捕る能力の高い人間を求めるくらいなら、鼠捕りの技能を標準化して、効率的な業務体系を構築したほうがよく、そうすることで再現性と安定的な精度も保証される。ところが、鼠にも一定の知性というか野性があるから、時間の経過とともに鼠捕り業務は裏をかかれて、成績が低下してくるに違いない。そうなると、効率化の限界が認識されて、鼠の野性に対して猫の野性をもってすることの意味が再発見される。これが現代組織の直面する課題である。
「窃盗ノ性」を許容することは、組織権力に対する反権力の視座を据えることであり、同時に革新と創造を生む地平を拓くことである。「窃盗ノ性」故に採用された猫は、鼠捕りを期待されていないので、趣味として、遊びとして、鼠を捕るであろう。おそらくは、鼠捕りを期待されている猫よりも多く捕るであろう。これが創造であり、革新なのである。
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森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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