3人のユダヤ人作家、フランツ・カフカ(1883年~1924年)、ヨーゼフ・ロート(1894年~1939年)、そしてシュテファン・ツヴァイク(1881年~1942年)の話を聞く機会があった。第一次世界大戦(1914年~18年)、ハプスブルク王朝の解体(1918年)、ナチス・ドイツの躍進(1930年代初頭)、そして共産主義の台頭(1920年代から30年代)といった時代の大変革の時に生まれ、作家、ジャーナリストとして活躍した人物だ。

ヨゼーフ・ロート(右)とシュテファン・ツヴァイク(中)とフランツ・カフカ Wikipediaより
カフカは日本でも多くの読者をもっている。カフカは41歳になる直前、結核でウィーン郊外のサナトリウムで亡くなった。彼は健康管理には注意を払ってきた。食事では必ず40回噛むことを実行し、朝は体操した。にもかかわらず、といっては可笑しいが、41歳の誕生日を迎える前に結核で亡くなった。労働者傷害保険協会に勤務していたカフカは、結核にかかっていた労働者を世話したことから、感染したらしいといわれる。
交際していた女性がいたが、最終的には結婚を断念し、生涯独りだった。時代はナチス・ドイツが台頭する直前だったこともあって、カフカは強制収容所などを体験しなかったが、愛する3人の姉妹たちはカフカの死後、いずれも収容所で亡くなっている。カフカは生前、会社勤務を終えると、夜、小説を書くといった今でいう2刀流の生活だった。死ぬ寸前、彼は友人マックス・ブロートに自分が書いた原稿を全部燃やしてほしいと頼んだが、ブロートはカフカの原稿を持ち出すことに成功し、後日、カフカの作品、「城」、「審判」などを世に出した。ブロートがいなければ世界文学にカフカの名はなかっただろう。
作家であり、ジャーナリストだったロートは45歳で亡くなった。自分の家を持たず、ホテルを転々しながら生活をしていた。ホテル代が払えなくなると、友人のツヴァイクに支援を要請する手紙を書いた。ツヴァイクは当時、流行作家として有名な作家だった。裕福な家庭出身のツヴァイクは経済的に困窮するユダヤ人作家たちにお金を送って支援していた。ただし、ロートに対しては必要な資金だけを提供し、余分なお金は送らなった。ロートが金があれば直ぐに酒を飲むことを知っていたからだ。
ロートの主な作品に「果てしなき逃走」「ラデツキー行進曲」「聖なる酔っぱらいの伝説」などだ。ツヴァイクと同様に、オーストリア=ハンガリー帝国に郷愁を抱き続けた。ロートを知っている友人は「ロートに会った時、彼は当時まだ40代だったが、60代の老人のような姿だった」と報告していた。欧州各国を転々と亡命し、パリでアルコール中毒もあって病死した。
一方、ツヴァイクはロートと同じようにハプスブルク王朝時代を夢見ていた。民族を超えて、様々な民族が君主制のもと共存する時代だ、しかし、王朝は滅ぶ一方、ナチスが台頭。逃亡を嫌っていたが、これ以上留まると危険だという友人の助言を受け、オーストリアを離れ、最終的にはブラジルまで逃避した。人道的理想主義者だったツヴァイクは未来に希望を失い、妻と共に自殺した。60歳だった。人気作家で有名なツヴァイクの自殺は当時、メディアでも大きく報道された。
ロートは一時期、共産主義に惹かれ、モスクワを訪問したが、失望して帰国している。ロートもツヴァイクも少数民族のユダヤ人にとって、ハプスブルク王朝のような多民族の共存した世界にあこがれ、そこに自身が安息できるアイデンティティを探していたのだろう。カフカの場合、ユダヤ人という出自がカフカ文学の中にどのように反映しているのかを知りたいものだ。
グローバリゼーション、多様性という言葉が一時期、各分野でもてはやされたが、ここにきて各民族、国家のアイデンティティを重視する傾向が再び見られてきた。同時に、反ユダヤ主義的傾向が拡散してきている。現代は3人のユダヤ人作家が生きていた時代に似てきている。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年9月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。






