
「部屋の中のゾウを捕らえよ 独立記者という生き方」という、少し風変わりな書名の本が出版されたので、読者諸賢にも紹介したい。その理由はもちろん、単に書名が風変わりであるからではなく、その内容に現代的な価値があると信じるからである。
実は既に、ご本人による詳細な解説記事がISF独立言論フォーラムに出ている。しかし、この解説は、私の見るところ少し長くて難しい。これではせっかくの好著が敬遠されてしまいそうな気がする。
それで、お節介とは知りつつも、多くの読者にもう少し「読む気になれる」書評を書こうと思い立ったのである(達成できたかどうかは読者諸賢に「お任せ」ではあるが)。
さてまずは、その書名にある「部屋の中のゾウ」の意味である。この言葉を手元にある英語辞書で引いても出てこない。英語圏では「部屋の中のゾウ:elephant in the room」は、最近出てきた言葉で、比較的広く知られているらしいが、日本語としては認知度が低いと思う。実は私自身も、この本が出るまではこの言葉を知らなかったくらいだ。「白いゾウ white elephant」ならば知っていたんだけれど(英語辞書にも載っている)。博識多読の著者・嶋崎氏だからこそ使える言葉だ。
その意味は「明らかに存在しかつ重大だが、その重大さ故に、大多数の人々にとってそもそも議論の対象とならない問題」を指す。その具体例として、日本国内で言えば、コロナとワクチン問題、ウクライナ戦争での米国とNATOの暗躍、日航123便墜落事件等の真相などが挙げられている。私なら、これに人為的CO2地球温暖化説の真相や故森永卓郎氏の言う「ザイム真理教問題」を追加したい。
いずれも、政府や大手マスコミ等の流す「通説」が一方向的で異論を許さず、少数の異論・反論を「陰謀論」扱いして封じ込めようとする傾向などが共通する特徴の問題だ。これらに対して、我々はどのように対峙すべきか?と言うのが本書の主題である。
序文「部屋の中のゾウ」の寓話から、では「部屋の中のゾウ」の意味が詳しく語られる。上で英語辞書には出てこないと書いたが、それは従来の英和辞書の話で、オクスフォード英語辞典では比較的新しい意味として「部屋の中のゾウ:elephant in the room」を「明らかに存在しているが、通常はそうした方が楽であると言う理由で、議論の対象としては、無視されたり避けられたりする重大な問題または論争的話題」と定義しているとの紹介がある。
なぜ、重大な問題が無視されたり議論の対象から避けられたりするのだろうか?その大きな理由として「誤謬よりも孤立無援の方が恐ろしい」との感覚が挙げられている。
つまり、多くの人々にとっては、少数派・異端者として迫害されることが恐ろしいので、事象そのものに即して正当と考えられることを行ったり、発言したりすることよりも、多数派即ち「みんな」と一緒・同意見であることの方が、はるかに重要だとの感覚だ。これは日本人に特に強い傾向ではないかと私は思う。これこそ正に「同調圧力」の基盤になるのだ。
この種の「過ちよりも孤立を恐れる」集団心理は、フランス革命時代から指摘されていたとのことだが、コロナ禍の日本で起きたことを端的に説明しうるものだと著者は言う。この当時、コロナワクチン接種に異を唱えることは許されず、ワクチンの安全性問題は、まさに「部屋の中のゾウ」だったのだ。他にも上に挙げられた諸問題がある。いずれも、大手メディアが見て見ぬふりをする傾向があった問題ばかりである(今でもこれらの真実追究に熱心とは言えないが)。
そこで第1章理論編「なぜ主要メディアを無批判に信じてはいけないのか、なぜ独立記者が必要なのか」は、この序文に書かれた問題意識に沿って展開される。そこでは、特に国際情勢と最先端科学技術の記事に対して警戒するように説かれる。なぜなら、それらに関する情報はしばしば「専門家」に独占され、彼らにとって「不都合な真実」がしばしば隠されてしまうからだ。この種の情報の「不可視化」に抗うために、市民ジャーナリズムあるいは市民記者が必要なのだとするのが本書の主張である。
なお、ここでは独立記者とは市民記者とほぼ同義で、特定の組織に属さず、または組織の意向に沿うこと無しに、記事を書く人を指す。つまり「部屋の中のゾウ」と化した重要問題を可視化し正面から名指す人を言う。
私はこの主張に全面的に賛同する。この問題の重要性と、市民(独立)記者の有効性の両面から。むろん、私自身が各種インターネットサイトに投稿することで、図らずも一人の市民記者になってしまっていることもあるのだが。
第2章はISF独立言論フォーラム編集長の木村朗氏へのインタビュー記事である。ISFは「真実探求と戦争廃絶」を目指す市民による「対抗メディア」として、広告収入には頼らず市民有志の寄付などで運営されている。インタビューでは、その存在意義と共に運営上の問題点も議論されている。
その中でISFは「市民記者」を募集して職業的記者でない一般市民からの投稿を促している。ネット社会の進展により、個人が情報を発信できる時代になった。社会を変えて行くには、正確な情報の共有が不可欠である。情報を自分なりに分析し、仮説を立て、新しい事実が出てきたらまた修正、といったやり方が可能になったのだ。どんな市民でも、問題意識さえあれば「市民記者」になれる。それは、現代社会において一つの希望になり得る。
第3章は「独立記者の方法論実践編」と題された、言わば各論である。この章の中身は、書評あり翻訳あり当事者・有識者へのインタビューあり、現場取材報告ありと多彩だ。
その補論として、「反ジャーナリスト」として有名な髙橋清隆氏の「メディア廃棄宣言」に関する解説記事がある。これもなかなか興味深い内容だ。この人の議論は常に辛辣で先鋭的な故に反発を招くことも多いのだが「部屋の中のゾウ」を可視化するにはそれ程の困難さがある証拠とも言える。
なお髙橋氏は、「記事作成を通して権力の片棒を担ぐことを生業とする人」を「ジャーナリスト」と定義するが故に、自らを「反ジャーナリスト」と呼んでいる。だから実質的には、高橋氏も市民記者あるいは独立記者の一例と見て良いと私は思う。端的に言って、マスメディアの作る「社会標準」に対して異を唱える存在である。市民記者・独立記者の存在意義はそこにあるのだから。
良心的な「ジャーナリスト」の中には、上記の定義に不満・反発を覚える方がいらしても、何の不思議もないと私は思う。しかし高橋氏の問題提起は「真のジャーナリストの在り方とは?」を考えさせる重要な契機であることも事実である。ぜひ、自問自答していただきたい。
第4章は「言論活動家」真田信秋さんの実践紹介である。この人も、上記髙橋氏と同様にマスメディアに取り上げられる機会はまずない方なので、まだ世間一般に広くは知られていない。この方の場合、単に言論の発信だけでなく、デモ参加や、政治関連の裁判の原告になる(例えば小池百合子都知事の当選無効訴訟)など、実際に行動を起こしていることが「言論活動家」と呼ばれる所以だそうだ。
真田氏の活動の特徴は、各種の情報公開請求を「主権者命令」として実行している点にある。どの分野であれ「疑問に思うことがあれば情報を調べてみて、見つからなければ情報公開請求をする」こと、その際、「情報をください」というお願いではなく「このような情報を開示せよ」等と、一主権者としての命令文の形式を取っていることが重要である。
こうした活動は「お上意識」が強い日本ではまだ一般的でないが、国民が主権者である民主主義国家では、当然の権利行使として認められるべき行動である。この章にはその具体例として、コロナワクチン関連の各種情報公開請求とその結果が示されており、詳細は原本を読んでいただきたいが、驚くべき事実が明らかにされている。このような活動を続ける真田氏の今後に注目したい。
この本には72項目に及ぶ詳細な注釈が付されており、立論の根拠を学術論文なみの周到さで示している点が、いかにも著者の嶋崎氏らしいと私は思う。
本書は、独立記者あるいは市民記者という新しいあり方を通じて、真実追究を行う可能性を示した本であり、その点に大きな現代的意義があると思う。既存のマスメディアの影響力がまだ圧倒的に大きい現代社会ではあるが、ネット言論などを通じて、その綻びを衝く活動も盛んになりつつある。本書が、その一助になることを願う。「孤立を恐れず、過ちを恐れる」精神を以て。
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