黒坂岳央です。
「自分らしく生きる」「他人に縛られない」
フルFIREが流行ってから久しいが未だにこうした意見をよく見る。自分自身、一時期はFIREに憧れていた時期があったのでえらそうなことはいえないが、実際に完全自由を手にすると思っていたものとかなり違う現実に直面する。
完全自由を経験してわかったことは、真の幸福とは「適度な規律と制約」の中にあるということだ。必ずしも万人に当てはまるとは言い切れないが、部分的には理解してもらえるかもしれないと期待して筆を執る。
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会社員の頃より忙しく働く
筆者は脱サラした現在、正直、会社員であった頃以上に規則正しく、制約の強い生活を送っている。
ハッキリいって、毎日のスケジュールは正社員時代より遥かに厳格である。早寝早起き、毎日1時間以上の運動と筋トレは必須ノルマ。
仕事だけでなく、子供たちの勉強管理、食事の準備、家事に忙しく毎日完全燃焼してヘトヘトになってベッドに倒れ込む日々だ。上司はいないが、ToDoリストを活用して規律正しく自らに課した厳しいノルマを課している。
時には疲労困憊して半日休みを取ることもあるが、1秒も働かない日はここ数年でまったく記憶にない。旅行先でも早起きして毎日仕事をしている。
自分が自由を得てもサボらない理由
筆者が会社員の頃より必死に働く理由がいくつかある。結論をいうと、「市場」の存在を強く意識するからだ。
たとえば筆者は仕事で記事や動画を発信している。YouTuberは「好きなことで生きていく」というイメージがあり、「動画が蓄積すると過去動画が再生されるので資産になり、あくせく働かなくてもよくなる不労所得状態になる」と思っている人もいるかもしれない。だがそれは違う。
厳密には、ある程度の頻度で新規動画を出し続けなければ、過去の動画もおすすめに載らなくなる。これは自分ひとりの意見ではなく、登録者数十万人規模のYouTuberも口を揃えており、数カ月休むと明確に再生が落ちる。だから自分の都合で休むことなど出来ないので、実態は馬車馬になる。
記事発信も同じで、高い頻度で記事を書くから固定読者がついて読んでもらえる。しばらく書くのをやめたら「心配なので戻ってきて」などと言われるイメージがあるがそんなことはない。代わりの書き手はいくらでもいる。すぐに他の発信者が空いた穴を埋めるだけだ。すなわち、サボることは自分の首を絞める。
他のビジネスでも同じだ。法人で持っているフルーツギフト会社は、コンスタントに出荷実績があるからこそ、商品仕入れもできるしふるさと納税や郵便局カタログに採用されている。「しばらく休みます」などとなれば、ライバル企業がその穴を埋めることは明白である。だから休めない。
いっそ、すべて仕事をやめるという選択肢もある。だが、ここまで頑張ってきた仕事を捨ててまで「やりたいこと」は自分にはない。
筋トレや運動は「見られる」から続ける
筋トレと運動も同じだ。誰にも強制されないのに、食事制限をし、毎日汗だくになるまで頑張る理由がある。
YouTube動画やリアルセミナーに登壇する際、みっともなくぶよぶよな脂肪をつけて人前に出るわけにはいかない。この「他者の視線」というプレッシャーが、筆者にとって最高のダイエットコーチとなった。
これまで数え切れないほど食事や運動を試みたが、一番効果があったのは「少し太りました?」という動画視聴者からのコメントである。もう数年前の話だが、本当にありがたいと今でも心から感謝している。このコメントのおかげで本気で痩せる決心が出来たのだ。今の運動や筋トレ習慣はこのコメントのおかげだ。
このように市場を意識すると自由を謳歌して怠けに怠けよう、などとは到底思えないのだ。
自由は重労働
見落としがちな視点として、「自由は重労働」ということだ。どういうことか?
人生にはレールがある。進学、就職、結婚、キャリア、老後の生き方だ。かつては社会や家族が決めた「レール」は消えて、今ではすべてを自分で決めなければならない時代になった。表面的には理想的だが、言い方を変えれば「すべてを自分で決断しなければいけない」という重労働を意味する。
心理学者バリー・シュワルツは「選択肢が増えすぎるほど人は不安になる」と述べた。これは“選択のパラドックス”として知られる現象である。自由を与えられた人は、必ずしも幸福にはならない。社会のレールに乗るという行為は、ある種の不自由さと選ぶ労働からの解放を意味する。
「人生の何もかも、すべてを自分で決めろ」という圧力が、自由を義務へと変えてしまった。結果を出せないのは個人の選択ミスとみなされる社会だ。この構造は自由という名の新しい監獄といえる。
現代人は「人生の経営者」という重役に疲れ果てている。
FIREして鬱になった人たち
こういう話がある。普通に会社員をやっていた人が、会社の持ち株がIPOしていきなり数億円を手にした。勢いで会社をやめ、毎日自由を得たが、その代償としてうつになった。このような話はYouTubeにいくつも転がっている。彼らが口を揃えて言うのは「自由は辛い」ということだ。
最初は海外旅行にいったり贅沢が楽しいが、それがずっと続くとしんどくなってくる。そして膨大な自由時間で発想することは、やがて自分の死や老化についてばかりとなり、ドンドン息苦しくなる。贅沢をしてもイライラが収まらず、まるで老人が店員や駅員を怒鳴りつけるような老害行動に走るようになる。そしてそんなことをしても咎めてくれる人も周囲にはいない。
人間は自由になりすぎると、必ず自己の存在意義を問い始め、その答えが出ない時に精神的に壊れていく。そういう機能性を持った生き物なのだ。
会社で嫌いな上司のいうままに馬車馬のように働くことを地獄と考えるなら、鍵がかかっていない監獄に閉じ込められた自由、これもまた別の地獄なのである。心がしんどくなるような余計なことを考えないためには、有意義な労働と適度な運動が最善策だろう。今のところ、筆者はそれ以外の選択肢を見つけられていない。
◇
人間はしょせん動物であり、それも社会的動物だ。完全なる自由に耐えられるような設計になっていない。だからこそ、自由を手にしたときこそ「自らを律する規律」が必要になる。それは世間で言われるような自由とはまた違った形をしていると思うのだ。
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