大事に処す

中国清朝末期の偉大な軍人、政治家で太平天国の乱を鎮圧した曾国藩は「四耐」、即ち「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐える」ということを言っています。此の閑に耐えるということは意外と難しいことだと思います。高い精神性がなければ、閑に耐えるというのが四耐の中では最も難しいことなのかもしれません。A級戦犯として絞首刑に処せられた広田弘毅内閣総理大臣(第32代)は「風車 風が吹くまで 昼寝かな」という句を詠んでいますが、このような句を詠めるというのは大変な人物だと思います。人間、社会や人から求められない時期は、寂しさに耐えなければなりません。

上記の四耐に加えて、彼は「激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず」という「四不」も、人物を育てる上で非常に大事であると言っています。様々な艱難辛苦(かんなんしんく)を克服して行く中で自らを鍛え上げ、また片方で事上磨錬(じじょうまれん)し知行合一的に実践して行き、恒心(…常に定まったぶれない正しい心)や平常心といったものを涵養すれば、大きな事を成し遂げ得る人物になれる、と言っています。

次に煩に耐えるということについて考えてみましょう。『みんゆうNet』の「四字熟語 【漢字の世界】・アーカイブ」に、「【336】余裕綽綽(よゆうしゃくしゃく)」とあります――斉(せい)の国の役人が、孟子に言われて王を諫(いさ)めたが容いれられず、辞職した。ある人が孟子に「あなたはどうする」と迫った。すると孟子は「我に官守(かんしゅ)(官職)無し、我に言責(げんせき)無し、則(すなわ)ち吾(われ)の進退、豈(あに)綽綽然(ぜん)として余裕有らずや」(私には官職もなく、諫いさめる責任もない。だから私の進退は、ゆったりと余裕があるのだよ)と言った。自分は斉の国に王道(王者のとる正しい道)を説きに来たのだから、こせこせしない、というのである。

人間、煩に耐えながら余裕を見出そうと思えば、自分がすべき事柄か否かをきちっと峻別しなければならないでしょう。佐藤一斎などは『重職心得箇条』第八条に、次のように書いています――重職たるもの、勤め向き繁多と云ふ口上は恥ずべき事なり。仮令(たとえ)世話敷(せわし)くとも世話敷きと云はぬが能(よ)きなり、随分の手のすき、心に有余あるに非ざれば、大事に心付かぬもの也。重職小事を自らし、諸役に任使する事能(あた)はざる故に、諸役自然ともたれる所ありて、重職多事になる勢いあり。

日々ディシジョンに迫られる人は、余りに多忙ではその本来の務めを果たし得ません。「度量の大たること肝要なり。人を任用できぬが故に多事となる」ということで、細かな事柄を人に「任用…任せて用いる」「信用…信じて任せて用いる」出来ない場合、本当に重大な事柄を決断するに耐え得るような人物の修練、知識の習得等に充てる時間がなくなってしまいます。「随分の手のすき、心に有余あるに非ざれば」、大事に処する土台が出来てこない、ということだろうと思います。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2025年10月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。