反知性主義の勝利:50年後に日本を呑み込んだ「見えない全共闘」

むむむ、と唸るnoteを読んでしまった。出てくる学者の固有名詞には知ってる人もいるので、そうした個別の評価は留保するとして、なかなかグサッと来ることを言ってると思うのだ。

著者のヤマダヒフミ氏は、なんか最近、人文書に見える “学者と社会の関係” がおかしくなってないか? と問う。特に疑問なのは、こんなノリの本が増えたことだという。

立派な学者のクソどうでもいい、ゆるふわエッセイ|ヤマダヒフミ
 先程、フェミニストでシェイクスピア研究者の北村紗衣が「学校では教えてくれないシェイクスピア」という本を出しているのを知った。    私はシェイクスピアが好きなので、北村紗衣がシェイクスピアについての本を出すと聞いて、あたかも自分の好きなものが汚い手で触れられているかのような印象を持った。知らなきゃよかった、と後悔した...

肩書だけが立派で中身のない学者が、学問という高みに自分の足で登る気がない、地べたに寝そべり、(努力すんのめんどくせー、全部三行で言えや)という怠惰な人々に、自分から降りていってあげるのである。
(中 略)
よくわからない難しい本を読みたくはないが、なんとなく知的なものを聞きかじって箔をつけたい、ぐらいの人達に対して、立派な肩書の人達が(昔のように必死に本を読んで熱く議論する、そういう時代はもう終わったんだよ、ゆるふわで楽しい私達が最高なんだよ)という福音を与えてくれる。
(中 略)
紫式部は腐女子だし、カフカはメンヘラで、ニーチェは私達を肯定してくれる応援団。過去の哲学者ってよく読めばみんな私達に生きる力を与えてくれる素敵な人達で、別に原書を読む必要なんかない。私達が三行で教えてあげるから、それを読めばいいんだよ。

ヤマダヒフミ氏note、2025.9.16
(段落を改変し、強調を付与)

あるある(苦笑)。「ニーチェは私達を肯定してくれる応援団」の例は、2010年に大ヒットした『超訳 ニーチェの言葉』とかを意識したものだろう。厳密には、同書の編者は権威とは関係ないが、ぼくも18年の本で批判したことがある。

稀代の知性が傷つき、倒れ、起き上がるまで『知性は死なない 平成の鬱をこえて 増補版』與那覇潤 | 文春文庫
稀代の知性が傷つき、倒れ、起き上がるまで 気鋭の歴史学者を三十代半ばに重度のうつ病が襲う。回復の中、能力主義を超える社会のあり方を模索する。魂の闘病記にして同時代史。『知性は死なない 平成の鬱をこえて 増補版』與那覇潤

エンタメの分野には「なろう系」という用語があるけど、ぼくは昔からそうした風潮を「なのに系」と呼んでいた。学者 “なのに” 難しげじゃない、みたいな評価を当て込んだり、そう見られることに固執したりする態度を揶揄しての命名だ。

もちろん学者がムダに「権威張らない」ことは、とても大事だ。前も書いたけど、社会に批判的なインテリほど “庶民を気どる” 流儀を失った時代に、リベラルの言論はエリートぶるばかりで空転し、見向きもされなくなった。

資料室: 参政党の "限界" を予見した敗戦直後の思想家―鶴見俊輔『戦争が遺したもの』|與那覇潤の論説Bistro
先月刊行になった荒木優太さんとの対談で、彼の研究対象でもある鶴見俊輔(1922-2015)の話をした。なので紹介するnoteでも触れたけど、いまはもう「誰?」という読者も多いだろう。 1979年生まれのぼく自身、あまり鶴見の記憶はない。朝日新聞系の媒体に、大御所的な扱いでたまに出る「左の偉い人」として、たとえば加藤...

が、なのに系にも良性と悪性があって、カフカってメンヘラだよ、と書いた後にどうふるまうかが、両者を分ける。メンヘラって俗語で身近に思ってもらい、「だから原典行ってみようよ」となるのが、良いパターン。

だが悪いほうは、難しげな往年の作家を「しょせんメンヘラ!」と呼んだ時点で、話を終えてしまう。もうわかったから、そんなん読まんでもいいっしょ、はぁここまでバッサリ斬れる私カッケー! みたいなやつね(失笑)。

この種の人は頭も悪いから、”バッサリ斬って” ウケようとする自分こそ、斬る相手の権威に依存していることに、気づかない。名高い剣豪を倒すから自慢できるわけで、無名の通行人を斬るのを誇ったらサイコパスだ。

ガチでヤバいのが、これが喩えでなくリアルなことで、そんな学者って実際、SNSでも “通行人” にばかり斬りかかりますよね(笑)。他の学問にもいるけど、流れで「文学」の人を挙げておこう。

2025.9.24
なお、斬り合いの結末はこちら

要は、なのに系(悪性)がやってるのは衆愚の先食いで、”あの” 文豪を軽くあしらえる私スゴいでしょ! してる内に、「そいつ誰すかぁ? 読んでたらなんなんすかぁ?」と言われるようになる。

タレントYouTuberの方が、教養書の紹介でも大学の先生より遥かにウケる時代に、学者 “なのに” とか気どられても意味がないのだが、令和に入って事態はもっと悪化した。ご存じのとおり、コロナで大学教員のほぼ全員が対応をまちがえて、権威がゼロになったからだ。

隠蔽された「8割削減」の真実: やはり、それは2度目の "満州事変" だった|與那覇潤の論説Bistro
今年の6月に岩本康志氏(東大経済学部教授)の刊行した『コロナ対策の政策評価』が、反響を広げている。2020年4月、当初は "専門家がエビデンス・ベースで" 発案したように報じられた「接触8割削減」の政策の、完全な無根拠ぶりが立証されているからだ。 西浦博氏の「接触8割削減」は計算違いだった : 池田信夫 blo...

そんな情況には、先例というか、原点がある。

「大学教授がそんなに偉いのか?」と疑う反知性主義が高まっていたところに、社会が熱病的なパニックに陥り、時勢に屈して場当たり的に “国の方針に追従” する大学の醜態が晒されて、ますます信用を失う――そう、70年安保や全共闘と同じだ。

…という話の決定版を、発売中の『表現者クライテリオン』11月号の、荒木優太さんとの対談で披露している。すでにご紹介した前編の続きで、実は話し忘れても後で加筆した “とっておき” だ。

令和の大学教授は "ルー大柴" になり、そしてみんな信じるのをやめた。|與那覇潤の論説Bistro
お休みしていた『表現者クライテリオン』での連載「在野の「知」を歩く」が、ようやく復活! 先週末に出た9月号で、在野研究者と言えばこの人! の荒木優太さんと対談しています。 荒木さんのYouTubeではすでに、2分強でのPR動画も公開! ぜひ、再生して下さいましたら。 在野で研究する人は昔からいましたが(ていうか...

與那覇 2019年刊の『在野研究ビギナーズ』(明石書店)で荒木さんは、イヴァン・イリイチに師事して日本でも民間主導の研究所を運営した、山本哲士さんを取材されましたよね。彼は加藤典洋と同じ1948年生まれですが、語られた全共闘期の体験がとても印象深くて。

当時、研究棟を1つ乗っ取るのに、戦力は学生が3人でも十分だった。なぜならヤバそうなトラブルを起こすだけで、教員も職員もみんな、責任を負わされたくないから逃げるんだと(苦笑)。後は、授業は休みになったんで麻雀大会やりますとか言っておけば、遊び半分の野次馬も集まってきて、大学を占拠できちゃうと。

これが20年以降、コロナ禍での「自粛」やキャンセルカルチャーになんら抵抗できず、右往左往するだけだった令和の大学にも重なって映りました。しかも往年の紛争では、教員が恥をかいてもキャンパスの内輪で済んだけど、いまはSNSで全部見えちゃう。

いま反知性主義と呼ばれているのは「オンラインでの全共闘」で、それが70年安保から半世紀を経たここ数年間で進行し、いよいよ在官の権威が解体されつつあるともいえます。

161頁(算用数字に改変)

コロナでの失敗以降、まちがえても謝れない学者を嬲る場所はSNSやこうしたnoteだから、キャンパスでの吊るし上げと違ってブロックできる。しかし、そんな見えない全共闘の方が、「気づいたら手遅れ」のリスクは高い。

なぜ日本の学者は「まちがえても撤回できない」のか|與那覇潤の論説Bistro
学者とは人柄を知らない時には、まったく素晴らしく偉い人に思われるのだが、近づけば近づくだけ嫌になるような人柄の人が多い。 学問が国民とまったく遊離しているという時の学者の典型は専門家である。 まったくの利己主義、独善主義、そして傲慢、しかも出世に対する極端な希求。早く、こんな型の学者の消え去る日が来ますように。 上...

いやいや、自覚がないわけないっしょ、頭いい人たちのはずだし? と思うかもしれない。が、ないんですよ、実際に(笑)。

以下はたまたま目についた例だけど、自ら「大学の先生をしています。最近は一般向けに語ることが多いんですけど。」と、大学教員 “なのに” 一般向けです、な自己紹介をする著者氏は、

時代の兆候としての「令和人文主義」。あるいは、なぜ突然そんな用語をつくったのか。|谷川嘉浩
令和人文主義と突然言い始めた谷川です。 このワードに惹かれて読んだ、私を知らない人に向けて自己紹介をすると、哲学の学位取得者で、今も大学の先生をしています(芸大でデザイン実技教えてます)。最近は一般向けに語ることが多いんですけど。 令和人文主義となぜ言い始めたかというと、2016年以降くらいに活動し始め、令和開始く...

令和人文主義となぜ言い始めたかというと、2016年以降くらいに活動し始め、令和開始くらいに活躍し始めた人たちに一定の共通点があって、
(中 略)
・文体が上の世代と全然違う
・受け手は学生よりも会社員(新しい知の観客を意識した語り方)
・多メディア展開
反アカデミズムではない

谷川嘉浩氏note、2025.10.11

と、なのに系なことを述べている。反アカデミズムではない、つまりガクモンは権威あるモノ “なのに”、大学に通わない会社員にも読める文章で書いてあげるよ、新しくない? というわけだ。

わりと名前を見る人だから、キャンパス外の実社会との接点は多い方の学者さんだろう。それでもこのレベルな現状のおかげで、いまや学会の頂点に立つ教授を看板に「ガクモンの自由!」を叫んでも、マスコミにスルーされてしまう(涙笑)。

メディアも見捨てた「学問の自由」を、この際、削除する改憲ってどうだろう?|與那覇潤の論説Bistro
「参政党の当否」をめぐる論争が、収まらない。おかげで支持される理由の取材が、関係者でないぼくにまで来て、まずJBpressで記事になっている。全2回で、どちらから読んでもOKだ。 【與那覇潤が斬る参政党現象】「専門家は間違えない」という神話はすでに崩壊…戦後と震災後の反省を思い出せ 評論家・與那覇潤氏に聞く② ...

かくして、大学の先生は権威がある、”なのに” 下々のレベルにあわせて人文知を広めてくださる、みたいに思い上がった前提は、終わった。でも、じゃあ今後はどうすれば、知性が働く場所を社会に作っていけるだろうか。

ずばりそれを議論する『表現者クライテリオン』での対談は、荒木さんのYouTubeでも、前後編の全編を有料公開している(サブスク登録すると、以下から見れるそうだ)。ぜひ、多くの読者や視聴者を得ますように。

参考記事:

父にならず「持ちこたえる」ことが成熟である。:『江藤と加藤』イベント告知!|與那覇潤の論説Bistro
「アゴラ」の池田信夫さんが声をかけてくれて、『江藤淳と加藤典洋』をめぐり行った対談が、早速公開されている。その末尾で『成熟と喪失』を主著とする江藤よりも、ほんとうは加藤の方が「成熟」していたんじゃないか、という話をした(31:00頃から)。 與那覇 なにが成熟なのかって江藤淳が〔『成熟と喪失』を書いた〕67年の...
『庄司薫と村上春樹』: なぜぼくは歴史学をやめて小説とか読んでるのか|與那覇潤の論説Bistro
5月以来、毎日のように『江藤淳と加藤典洋』の宣伝ばかり考えて送る夏なのだが、ネットで嬉しい感想を見つけてしまった。7/22の投稿で、書いてくれたのは画家ないし絵師の人らしい。 嬉しいと言っても、別に「うおおおおこれが戦後批評の正嫡! ひとり勝ち! 著者には批評の覇王をめざしてほしいッ!」みたく持ち上げてるわけじゃない...
あのオープンレターズは、いま。4年前に "キャンセル" を誇った学者たちの末路|與那覇潤の論説Bistro
6回分連載した「オープンレター秘録」を、あと1回で完結させたいのだが、時間がとれない。この春に戦後批評の正嫡を継いでしまい、歴史の他に批評の仕事もしなければならず、忙しいのだ。 そんな間に、キャンセルカルチャーの潮目じたいが大きく変わった。未来に目覚めて(woke)現状変革を唱える急進派が、"時代遅れ" と見なす保...

(ヘッダーは1969年、バリケードで京大のキャンパスを封鎖する学生たち。毎日新聞より)


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年10月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。