イエスは神か、人間かーこれが問題だ

前日に続いて「ニカイア公会議1700周年」について書きたい。レオ14世は今月27日から最初の外遊先としてトルコを訪問し、西暦325年に「イエス・キリストは神である」と決定し神学的に大きな影響を与えたニカイア公会議の開催地である現在のイズニクを訪問し、キリスト教祈祷会に参加する。

ニカイア公会議1700周年を記念したバチカン発行の切手、2025年11月23日、バチカンニュースから

レオ14世は23日、「信仰の一致において」(Inunitatefidei)と題された10ページの使徒書簡を発表し、1700年前のニカイア公会議の記念がエキュメニカルな関係に弾みをつけることへの期待を改めて述べた。ちなみに、ローマ教皇庁のクルト・コッホ枢機卿は、レオ14世教皇の初の外遊がキリスト教徒の信仰と一致を後押しすると期待し、「ニカイア公会議の教令の永続的な重要性」を称賛した。

エキュメニズムの観点から見ると、ニカイア信条は「信仰の統一」において極めて価値あるものだ。キリスト教諸教会と共同体の共通の道の「基盤であり、基準点」となっている。レオ14世は6月7日、「ニカイア公会議は単なる過去の出来事ではなく、全てのキリスト教徒の、完全な目に見える一致へと私たちを導き続ける羅針盤だ。私たちは共に、三位一体の神を信じている」と説明している。

ただ、教皇の文書は、通称「エキュメニズム回帰」を明確に否定している。すなわち、「キリスト教会の現状の多様性の相互承認」に満足するのではなく、「すべての人の悔い改めと回心を通じて「正当な多様性における真の一致」を目指しているのだ。ニカイア会議は、三位一体の教理によって、このような一致のモデルの青写真を示したという。

レオ14世は使徒書簡で神への問いが人々の中で薄れてきたことを懸念し、その責任の一端がキリスト教徒にあると指摘する。「彼らは真の信仰を証しせず、生活様式を通して神の真の顔を覆い隠しているからだ」という。教皇は「人々は慈悲深い神を宣べ伝える代わりに、恐怖を広め、罰を与える復讐心に燃える神について語ってきた。それゆえ、ニカイア信条は今日、私たちに良心の省察を促している」というわけだ。

レオ14世によると、公会議の教父たちは、いくつかの神学的立場を確立している。ニカイア公会議では、アリウス派とアタナシウス派の対立を解消する目的があった。アタナシウス派とは、アレクサンドリアのアタナシウスの指導の下、父なる神と子なる神であるキリストが同質(ホモウシオス)であると主張した派だ。この考え方は、後に三位一体説として確立され、キリスト教の正統教義とされた。一方、アリウス派は当時、最も影響力のあるキリスト教運動であり、アレクサンドリアの長老アリウス(260年頃から327年)の信奉者たちの信仰だった。イエスを父に従属する存在と見なし、それゆえにイエスの神性を限定した。彼の教えはニカイア公会議によって拒絶された。

レオ14世が記しているように、肯定的な意味では、ニカイア公会議では聖書の一神教を神の「受肉の現実主義」と調和させたというわけだ。ニカイア公会議で見出された答えは「永遠に」有効という。それは、イエスが「完全に人間であり、完全に神である」ということだ。

参考までに、ニカイア公会議のテーマ、「イエスは神か」を聖書に基づいて少し検証してみる。

ピリボがイエスに、神を見せてくださいと言った時、イエスはピリボに「私を見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示して欲しいと言うのか。私が父におり、父が私におられることを信じないのか」(「ヨハネによる福音書」第14章8節~10節)と答えている。別の個所では、「アブラハムの生まれる前から私(イエス)は、いるのである」と述べている。「イエスが神」と解釈できる聖句だ。

一方、「ローマ人への手紙」第8章34節によると、「イエスはよみがえって神の右に座し、また私たちのために取りなして下さるのである」と記され、イエスは神を父と呼び、自ら神でないことを明らかにしている。また、イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(「マタイによる福音書」第27章46節)と述べている箇所などは、「イエスが神ではない」ことを示している聖句だ。

すなわち、聖書には「イエスは神」という聖句と「イエスは神ではない」という聖句が記述されている。この一見矛盾する聖句を如何に合理的に解明するか、という課題はキリスト者に依然残されているのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年11月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。