
本年8月、私は此の「北尾吉孝日記」で吉田松陰先生の言より、『道は則ち高し、美し、約なり、近なり』と題し、次のように述べました――結局、人間その道から外れてしまうのは一言で言えば、私利私欲が所以(ゆえん)だと思います。(中略)道とは「約なり、近なり」で、人間誰しも分かるようなっているはずのものです。しかし純真無垢な赤子には分かるものの、私利私欲に塗れた人間には分からないわけです。簡単であればこそ、ある意味難しいこともないのであります。(中略)我々は人道を極めるべく探求し、棺桶に入るまで学を磨き続けねばならないのです。
上記ブログに対し齊藤大輔さんという方より、「何年にもわたってお教え頂いてきているにも関わらず、己を省みると己を恥じいるばかりです。(中略)もし許されるならば、無礼を承知でお教え頂きたいのですが、仕事でも私生活でも自分が理想とする道を歩きたいと思っていても、自分の弱い心に負けてしまいそうな時、道を踏み外しそうになる時、諦めそうになる時、どう自分を奮い立たせればいいものでしょうか?」とのコメントを頂きましたので、本ブログにて私が思うところを以下申し上げて行きたいと思います。
先ず「自分の弱い心に負けてしまいそうな時」とは、自分の弱い心が存在していることを知っているわけですから、それを知ればこそ自分をもっと強くする方向に持って行かなければなりません。また「道を踏み外しそうになる時」とは、道を逸れそうになること自体が十分に修養が出来ていない証左です。正に天が示したる道というのは、そもそも絶対に踏み外してはいけないのです。
どのような場合でも、外してはいけない道があります。それは常々申し上げている通り、社会正義あるいは自分の良心に照らし合わせて如何なるものか、といった考え方です。確固とした考え方を自分で持つべくは、常に自らを省みて自らを突き詰め自分の心を極めて行くということ、即ち「自反尽己…じはんじんこ」に徹し続ける以外にないと思います。自らに反り本来の自己を自覚し、自らを究明し続けて行くしかないのです。
「自分は忍耐ということについて、これまで果たしてどの程度守れたか」と反省してみられたら、この忍耐という徳目一つさえ、決して卒業できていないことが分かるだろうと思います(森信三著『修身教授録』)――「忍は忍なきに至ってよしとす」という石田梅岩先生の言葉がありますが、当該境地に達するは至難を極めることです。我々は往々にして感情に溺れ、執着することで欲の虜になって行きます。人間学を通じた修養が求められる所以です。
『大学』の「伝二章」に、「湯(とう)の盤の銘に曰く、苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」とあります。夏(か)の桀(けつ)王を滅ぼして殷王朝を創始した湯王は、洗面の器に上記言を刻み付け、毎日自分自身を反省し進歩すべく精進したと言われています。あるいは『論語』の「学而第一の四」に、「吾日に吾が身を三省(さんせい)す」とあります。曾子(そうし)は、学んだ事柄を自分の日常に活かしているかと日に何度も反省していたのです。学んで反省し活かして行くという繰り返しの中で、人間は成長して行くことが出来ます。齊藤さんは、そうした反省の在り方が不十分であるからこそ、弱い自分が何時までもそこに居続けるのではないでしょうか。
「日に新たに」の「新」を分解すると、辛・木・斤(斧)の三つから成っています。従って原義は「辛抱して木を斧で削り、有用なものを創り出す」となり、変化創造して行くという意味が出てきます。考えてみれば安岡正篤先生が述べられているように、宇宙の本質は「絶えざる創造変化活動であり、進行である」わけですから、前記『大学』の言葉は「宇宙万物運行の原則であり、したがって人間世界を律する大原則」と言えましょう。我々は此の「日新」を肝に銘じて、常に自反尽己し自己革新を図り、良き方向に進んで行かねばならないのです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2025年12月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。






