「令和人文主義」ブームへの期待と批判について ≒『批評』は死んだのか?問題

「令和人文主義」というムーブメントがあるらしく、ちょっとそれについての話を聞いて下さい。

キッカケとしては、最近、x(Twitter)とかのSNSで出会っていたら明らかに「敵同士」になっていたような人とも対話できるようにするというコンセプトの

「敵とも話せるSNS」=「メタ正義をベタにやるコミュニティ」=「めたべた」

というのを主催していまして、結構な人数入ってくれて毎日ワイワイと色んな話をしているんですね(ご興味あれば以下リンクからどうぞ)。

サイトについて
「メタ正義をベタにやるコミュニティ」(めたべた)では、どんどん治安が悪くなる”オープンなSNS”からの避難所を提供します。 突然罵倒されたりしない安心感のもとで自分の気持ちを吐き出したり、立場の違いを超えて意見を交換したりといった、昔の「ネット黎明期」にはあった可能性を再度信じられる場を目指します。 そうすることで、罵...

参加してくれている人の中には、いわゆる「党派的」な言葉でいえば右の人も左の人もノンポリの人も、もう引退した世代の人から20代の大学生まで、金持ちそうな人もそうでない人もいるんですが・・・

そうやって「話題を共有」しながら生きていると、普段は「xの自分のクラスタ」にはいない人が普段どういうものに接しているのかがわかってきたりするんですが、そこで

「令和人文主義」ブーム

…というムーブメントが話題らしいという話を聞きまして・・・

上記の「敵とも話せるSNS」の中でもファンが多い発信者としては、

・コテンラジオ(深井龍之介さん)
・ゆる言語学ラジオ(水野太貴&堀元見さん)
・三宅香帆さん

などがその主要プレイヤーと思われているようです(他にも色んな方の名前があげられています)。

この言葉は、哲学者の谷川嘉浩さんという方が提唱者らしく、以下の朝日新聞の記事や、ご本人のnoteで詳説されていました。

深井龍之介、三宅香帆…新世代が再定義する教養「令和人文主義」とは:朝日新聞
■Re:Ron連載「スワイプされる未来 スマホ文化考」(第9回) いま、令和人文主義が席巻している。代表的なのは、株式会社COTENの深井龍之介さん、株式会社baton(QuizKnock)の田村正資…
時代の兆候としての「令和人文主義」。あるいは、なぜ突然そんな用語をつくったのか。|谷川嘉浩
令和人文主義と突然言い始めた谷川です。 このワードに惹かれて読んだ、私を知らない人に向けて自己紹介をすると、哲学の学位取得者で、今も大学の先生をしています(芸大でデザイン実技教えてます)。最近は一般向けに語ることが多いんですけど。 令和人文主義となぜ言い始めたかというと、2016年以降くらいに活動し始め、令和開始く...

上記の谷川さんのnoteには、そのコンセプトにかけた意図みたいなのを説明したポッドキャストへのリンクもあったので2つとも聞きました。

提唱さんの谷川さんの説明において、「令和人文主義」の特徴としてあげられているものとして印象的だったのは、

・「人文知ギョーカイの内輪トーク」的な難解な文体ではなく広く平易に読まれる書き方・表現方法をする。
・主要な読者・受け手は、大学生ではなくむしろビジネスパーソンが想定されている。
・政治的な話題を扱う時でも、いわゆる右vs左的な党派的な色を薄めて話す能力がある。
・専門書というより新書、そしてYouTubeやポッドキャストなど多面的な展開によって、人文知のリーチを広げようとしている。
・「アンチ人文アカデミア」的なことをわざわざ言ったりしない。
・一方で、「ビジネスに役に立つ!」的なアピールもしないで、むしろ「人文知の楽しさ」を主観的に楽しめる余裕を大事にしたいという姿勢がある。

…という感じだそうです(確かに、挙げられているお名前の方々にはめちゃ当てはまる感じがしますね)。

今回記事はこの「令和人文主義」ムーブメントの背後にあるものについて考えを聞いてほしくて書きます。

特に、「令和人文主義」に否定的な人たちは、伝統的な「知識人像」とか、「いわゆる批評というもの」の価値を貶めているのではないか、みたいな事をいう流れもあるようなので、そういうところについても考えたい。

0. はじめまして!の方向けの簡単な自己紹介

本題に入る前に、「はじめまして!」の方に一応自己紹介をすると、自分はもう40代ついに後半になってしまった人間で、大卒後は外資コンサルからキャリアをスタートしたんですが、そういう「グローバルな発想」と「ローカルの実情」の間のギャップに思いなやみ、プロフィールにあるような色々と紆余曲折を経て、今は主に中小企業向けのコンサルタント兼「思想家」を名乗らせてもらって仕事をしています。

「思想家」を名乗っている理由は、実際に「グローバルvsローカル」の問題を実地に解決していくには単なるハウツー的な話ではダメで、ある種の巨視的な視野で「一貫した世界観」を再提示して社会を動かしていくことが必要だと考えているからで・・・

その「成果」的な話でいえば、地方の中小企業でここ10年で150万円ぐらい平均給与を引き上げられた事例などもあって、そういう「実地に日本で何が起きていてどうすることが必要なのか」という体感の話と、「インテリの議論」をいかに接続するかが自分のメインの主題となっているという感じなんですね。

活動と思想をまとめた著書としてご興味があれば、とりあえず最新の以下などを読んでいただければと思います。

論破という病

また、noteの中でも時々アカデミア寄りの「思想」っぽいジャンルの話はしており、特に以下の記事などは、「令和人文主義」にも名前があげられている朱喜哲氏の著作「フェアネスを乗りこなす」などを引用しながら、「アカデミアと現実社会の間」について考える記事として当時結構読まれました。

ナチスの諸悪の根源は『悪の凡庸さ』なのか?問題を、東浩紀の思想(訂正可能性の哲学)から考える。|倉本圭造
年末年始に、普段時間なくてなかなか読めないタイプの本を読もうと思って、色々と人文社会学系というか、いわゆる『文系の学問』の本を何冊か読んでました。 そしたら、ある種の文系の学問世界における「今のトレンド」が色々と感じられてかなり有意義だったんで、今回はその話をします。 テーマは、時々「対立関係」として捉えられること...

普段は自分は「アカデミア的な意味での人文知」とはかなり遠いスタンスで仕事をしていますが、上記記事とかを読んでいただくとそれに対する尊重心はちゃんとあると思っていただけると思いますし、その上で日本社会と人文知との関係性をより良くするために何が必要なのか?という考察を読んでいただければと思います。

僕は普段からnoteとしてはありえない長文を書きがち人間なんですがw、多分ジャンル的に「長文読むのへっちゃら」な人が対象読者になると思うので、ちゃんと意を尽くして書きます。

1. 「2010年代型啓蒙主義的ビジネス書ブーム」とその後の「教養マウンティングの欺瞞」

上述の「敵とも話せるSNS」でこの話題に行きついたのは、まず古賀史健さんがフジテレビ問題について切り込んだ以下の本が話題だったからなんですね。

「集団浅慮」(ダイヤモンド社)

この本は、「集団浅慮」というアメリカの社会学者の概念を使って、フジテレビ問題を分析する、という構成でできています。

フジテレビ問題の報告書を改めて読み、内部でどういうことが起きていたのかを詳述しながら、「むしろ優しい配慮をしている」ようなフリをしながら余計に人権侵害的な方向に突き進んでしまう理由について述べられていて、大変プレーンでわかりやすい文体も含めて良い本だったと思います。

一方で、この本の「構成の仕方」が、個人的にはものすごく「懐かしい」感じがしたんですね。

古賀史健さんは2013年に書かれた大ベストセラーの「嫌われる勇気」の著者でもあるんですが、「集団浅慮」は「あの時代の空気」をすごく感じる本だった。

どういう部分にそう感じるかというと、

・日本社会にある問題を一点集中的に「ここが問題だ」と取り上げて…
・欧米のアカデミックな知的権威の文脈を導入して明確な回答を示す!

という構成の部分です。

ぶっちゃけた言い方をすると、「欧米の知的権威」が「水戸黄門の印籠」のように出てくる話の構成ということになるでしょうか。

こういう筋立ては明快だし、読んでる時は

「そうだ!これこそが問題だし、そしてこうすればよかったのか!わかったぞ!」

って感じるんですよね。

一方で、「嫌われる勇気」を読んで、人間関係の悩みが解決したぞ!っていう人もあまりいないんじゃないかという部分も正直あって、こういう「構成」自体が、

・そういう世界観で生きられる人っていうのはそもそも日本社会で恵まれたポジションにあることが前提だったのでは?
・そういう欧米の枠組みでは割り切れないリアルにぶつかってる自分にとって、そんなに「クリアーにわかりやすく」解答を話されても困惑するだけなんですが・・・

…という齟齬を生んでいたところがあると自分は考えているんですね。

というか、当時の僕が読者としてこういう本に接していた素直な感想として、すごく「本を読む読者として楽しい、意味があると感じる」と同時に、とはいえ「そうはいってもねえ」という自分のリアルに対する答えは誰も与えてくれない・・・という一種相反する違和感を消せずにいた。

とはいえ、この「啓蒙主義的ビジネス書」のレベルだとまだ、「現実の課題へのソリューションの提供」という形で対応されていて、それによって「我々の日常」と「人文知的な権威」が直結するのか!という興奮があったんですけど・・・

このブームがさらに推し進められて、だんだんその「リアルな課題」とのカップリングも消えてきちゃって、「単なる教養主義マウンティング」的な様相になってきた流れがあったんだと思うんですよね。

単に「俺はビジネスできるだけじゃなくてこんな難しい本も読んでるインテリなんだぜマウンティング」のために消費されていく「ビジネスパーソンの仕事に役立つ哲学の本」とか「なぜ一流の人材は哲学を読むのか」とか(2つとも今適当に考えた題ですけどw)そういう感じの本が大量生産される流れがあって。

そういう「教養主義の欺瞞」が嫌気されていく中で、新しく2010年代後半に別の風潮が出てきているのだと個人的には総括しています。

ちなみに、この「教養主義の欺瞞に対する批判」というのは、むしろ「本式のアカデミア的人文知の内側」から出てきた流れでもあって、それが「令和人文主義」を作ったというのはこの言葉の命名者の谷川嘉浩さんもポッドキャストや記事などで話されていました。

「教養主義の没落」 竹内洋
大正教養主義の成立と末路ー近代日本の教養幻想 松井健人

これらの↑学術書で、そもそもの「教養主義」的なものは、大正時代にあったとされるオリジナルな美談の時点からして「単なるマウンティング」行為にすぎなかったのだということが暴かれて、そして「それとは違うなにか」を求める動きに繋がったのだそうです。

2. 「教養主義の欺瞞」から生まれた2つの潮流

上述のように、「単なるマウンティングのために難しい話してる」型の教養主義に対する批判あるいは反省が、2010年代後半以後「新しい潮流」を生み出したと自分は考えていて・・・

それが、

A・トランプ時代の「ポスト・トゥルース」ムードの中でのストリートファイト型「お前のリアルをお前の言葉で語れよ」系(箕輪厚介さん系)

B・「単なるマウンティングのネタ」ではなく、「ビジネスに役に立つ」とかも無理して言わずに、ちゃんと人文知の良い部分をそれ自体素直に楽しみ、皆と共有していきたいという”令和人文主義”

の2つなんだろうなと。

「嘘くさい権威的知性の押し付け」に対して、「知的権威からの借り物の言葉じゃなくて、お前のリアルを”お前の言葉で”語れよ」型のぶっちゃけたストリートファイトに行くのか?(A)

それとも、「マウンティングのため」とか「明日の仕事に役立つ」とかの卑小な目的に限定されないで、人文知の中にある本当の良さを一般の人でも理解できるように語っていこうというムーブメントに行くのか?(B)

ぶっちゃけ「書き手」としての僕自身は、ある種の人文知への敬意はあれど実際のメンタリティとしては「A」の方に属していたところがあって、今まであまり令和人文主義の方々の活動は見ていなかったんですよね。

(これは案外、「令和人文主義」的なインテリのありかたが軽薄なものにすぎないと批判するタイプの、「オールドスクールな知識人の価値」を信じたい人も、たとえば東浩紀さんをはじめとして「A」に属するような自意識の人も多い実情はあったと思います。また、令和人文主義の代表的存在とされている三宅香帆さんの”考察する若者たち”を読んだら案外にも、権威付けされた言説よりも本当に個々人のリアルな気持ちをそのまま認めていけるようになろう!・・・みたいなメッセージがあったという意味で”A”の要素もあったと思います)

でも、僕が主催する「敵とも話せるSNS」で色んな参加者の人が「令和人文主義」のコンテンツをワイワイ楽しんでいるのを見て、

なるほど、令和人文主義ブームがあることの価値ってたしかにあるな!

って最近すごく思いましたw

なんというのかAの方のストリートファイト型ポスト・トゥルース時代の風潮は、何らか「本当にオリジナルで現場発のリアリティを掴まなくちゃ」という意志がある事自体はすごく大事なことだと思うのですが、一方である種の

「知的な良識」みたいなものに思う存分ツバを吐きかけられる社会的現状

みたいなことについてはダダ崩れに容認しがちっていうか「っていうかしゃあねえじゃん!」って言って終わってる面があったなと思うのでw

「A(ポスト・トゥルース型ストリートファイトの世界)」ばかり触れたあとに久々に「B(令和人文主義)」風のコンテンツに触れてみると、「おお、良識が良識のまま通じるぞ!」っていう当たり前の安堵感みたいなのがある。

ポスト・トゥルース型のなんでもありの世界はそれはそれで不健全な面もありますよね、という結構当たり前の話をちゃんとしてくれる勢力がある程度の部数の本やらコンテンツをちゃんと売って存在感を発揮してくれていることの意味・・・というのは、これはもう頭を下げて敬意を示すしかないなと。

3. 令和人文主義は『正社員サマの哲学』にすぎないのか?

とはいえ、令和人文主義に対しても色んな批判があるようで、僕の主催する「敵とも話せるSNS」で話題になってた記事としては、こういうのがありました。

「令和人文主義」に異議あり! その歴史的意義と問題点|文学+WEB版
【評論】小峰ひずみ 〇「令和人文主義」とは?  「令和人文主義」という言葉が最近、注目を浴びています。哲学者の谷川嘉浩さんが提唱された言葉だそうです。谷川さんは朝日新聞に「深井龍之介、三宅香帆…新世代が再定義する教養「令和人文主義」とは」という関連記事を寄稿されてもいます。この「令和人文主義」は「読書・出版界とビ...

(普段”界隈”の議論に触れてないのでこの記事がどれだけインパクトあったかわかりませんが、結構”いいね”の数も集まってるから一応広く読まれてるものと考えていいはず?)

ただ個人的には、上記リンク先記事は結構”特殊な批判”をしている感じがして、そもそも「人文知」に経済学・経営学の話が一切入ってこないのもイビツなように思うし、こういう世界観の限界を人間は20世紀のアレコレで気づいて、その反省から「より広い」範囲の”現場”との双方的連携で乗り越えなくちゃいけない時代なのだと感じました(とはいえ筆者の少し懐かしいような”熱い思い”自体は正直かなり刺激を受けて、考え方は違うけど俺もガンバるぜ!と思いましたw)。

一方で、上記記事ほど特殊なロジックでなくても、もうちょっと一般的な意味で「令和人文主義」に対する批判というのは結構あるように思うんですね。

それは、「令和人文主義」が、本来あるべき「知識人がやるべきこと」を非常に限定的なものにしてしまってるんじゃないか、という批判です。

ネットのどこかで「すごい悪口のセンスw」と思ったのが「正社員サマの哲学サロン」みたいなことを言ってる人がいて笑っちゃったんですけど。

令和人文主義のスターたちの結構な部分の人たちは「結構良い会社とかアカデミアの正社員」だったりとかして、普通に個人の生活は安定してる立場の上で、「余技」として、

「ちょっと面白い話があるんだけど聞いてくれない?」

みたいなサロンを主催して、同じく「安定した立場」の人の余暇を潤している・・・みたいな批判は、めちゃくちゃ意地悪く言うと成立するのかもしれない。

いみじくも「知識人」を名乗るのならばッ(そもそも彼らは名乗ってすらない感じですがw)!、例えば非正規で働いている不安定な立場の人とかがこれだけいる現状の中で「なにかせねば」と思わないと知識人足り得ないのでは?というのは、非常にオールドスクールな思い込みのようで、一定の考える余地があるテーマなのかもと僕も思います。

4. 「批評」は死んだのか?問題

なんかこう、「古きよき知識人」の『ザ・批評』ってう、ある種の神格化されたジャンルっていうのがあったんですよね。

吉本隆明さんとか、江藤淳さんとか、柄谷行人さんとか、最近ではギリギリ東浩紀さんぐらいまで「継承」されてきたような、色んなことに対して「個人の意見」を表明してるだけなんだけど、それがそのまま「社会へのアクション」そのものになっているような?

それこそサルトルとかレベルの歴史的人物のイメージを自らが体現しようとするような、「社会についてなにか語ること」自体がそのまま、人々がどういう風に動けば社会をより良いものにできるのか?についてのオープンな議論のハブとなるような、そういう空間の価値が信じられていた過去があったんですよね。

だから、さっきも書いたけど東浩紀さんとかは、(半分冗談みたいな感じで言ってて別に心底否定してる感じではないと思うけど)「令和人文主義」的なお行儀の良さを批判し、「ポスト・トゥルース型ストリートファイトの中でなんとか価値を生み出そうと藻掻く」ことが大事なんだ、というようなことを言っているところがある。

そういう意味で、令和人文主義への批判については、

・本来「知識人」がこの社会の中で果たすべき役割は、もっと大きなものであったはずなのでは?
・そういう「要素」が社会の中から消えてしまったら、この社会を根底から捉え直して「良い」方向に動かす重要な機能が失われてしまうのでは?

…という問いかけ自体は、結構真剣に考えてみても良いような感じがします。

…とここまでが「自分なりの状況整理」って感じなんですが、ここから結局今起きてることの本質に関する私見と提言みたいな話に入ります。

5. カリスマ独裁からバケツリレー方式へ

最近、僕の本業(どっちが”本”かは別としてw)である経営コンサル業の中で、随分前から持っている問題意識として、

もうソンさんとかイナモリさんとかヤナイさんとかナガモリさんとかみたいな存在に頼りすぎるのは良くない時代なのかも

…みたいな認識があるんですよね。

上に書いた人たちはだいたい70代前後ですけど、そこを境として、「カリスマ」が全権奮って統治していて、後継者を立てよう立てようとしたけど結局我慢できなくなってずっと実権握ってるみたいなタイプの経営者が、下の世代にはあまりいなくなっている。

で、最近では、粉飾決算疑惑で大問題になっている”ナガモリさん”のニデックみたいに「カリスマ独裁」の弊害が現れてきちゃってる例もチラホラありますよね。

もっと下の世代になればなるほど、「チーム」で仕事しているというか、経営者も一つの「機能」になり、色々なタイプの人材との相互補完性の中で一つの「価値」を生むようになってきている。

いろんな意味で社会が複雑化してきて、また同時に色んな意味での”チェックアンドバランス”がガバナンスとして整備されることによって、「今70代前後の人みたいな独裁的な経営者」像が成り立たなくなってきている。

そういう「カリスマ独裁」ではなくて、「色んな機能を持った人たちがバケツリレー方式で一つの価値の連鎖を作る」ことが必要な時代になっているのだと思います。

要するに、「知の巨人!」サマがなにか言って、それを弟子たちがありがたく奉戴して、それでなにか社会運動が巻き起こって社会が変わる・・・というモデル自体が既に無理がある時代なんじゃないか、ということです。

そういう「カリスマ独裁」型ではなくて、「バケツリレー型の価値連鎖」で同じことをやるんだ、でかいクジラ一匹でなく小さい魚が寄り集まった「スイミー」方式でやるんだ・・・という風に考えた時に、令和人文主義は「その必須不可欠な部品を提供してくれている」と考えられるのではないでしょうか?

6. 「部品」を供給すれば、誰かが「実装」してくれる。バケツリレー方式の”ペイフォワード”を信頼できるか?

最近、コテンラジオさんが「プロジェクト・ジェンダーインクルーシブ」っていうのを始められていて、ジェンダー論についての人文知的蓄積を結構コストかけてポッドキャストに集大成的にまとめて、それを個人は無料だがクローズドな紹介制、企業は有料で・・・とかなんかかなり複雑な仕組みで配布を開始してるんですよね。

で、僕の『敵とも話せるSNS』の中でも紹介権を数名分持ってる人がいて、希望者を募って聞いているスレッドがあったんですけど・・・

そのSNSには分類としては「結構右の人も結構左の人も」いるから、かなりガチな「フェムテックアクティビスト」みたいな活動を長年やられている方もいて、それでコテンラジオのそのコンテンツを聞いていて、なんか「辛くなった」みたいな事をおっしゃっていて。

そこには色々な感情があると思うけど、「自分たちがずっと言ってきたことが聞き入れられなかった中で、なんかこういう”ビジネス的に構造化”してちゃんと話すと伝わる層もいるんだろうなということ」自体のショックとか、そういう事を色々と話されていて。

「自分たち内部の言葉」だけでなくて、それがちょっと「ビジネス寄りなフォーマット」で表現されることの異文化衝突というか、フリクションというのは実際あると思うし、そういうイベントがあることで、「今まで聞いてもらえなくて辛かったという思い」みたいなのが止まらなくなるような部分もあったり・・・

なんかまあそこには色々な一言で言えないドラマがあるわけですけど、とはいえ引いた目で冷静に語るとすれば、「ガチのアクティビストの内側の言葉」が、一旦クッションされて、「ビジネスフォーマット的な表現方法による人文知」に置き換えられることの価値っていうのはあるな、というようにすごく感じました。

多分一時は、「長年真剣に活動してきた当事者」的観点からすると「イシューを簒奪された」ように感じるかもしれないけれども、それでもそこに「令和人文主義的なニュートラルさ」が噛み込むことでより広い範囲につながるということはありそう。

こういう風に「令和人文主義が媒介」することによって、本来「つながるはずのなかった繋がり」が実現することが、ほんとうの「バケツリレー」が成立するために非常に重要なことだと思うわけです。

心底に「切実な思い」を秘めたアクティビストの人や、ジェンダー論のアカデミアの人と「直」につながるにはカルチャーギャップが大きすぎるけれども、「コテンラジオのカルチャー」となら繋がれる層というのはたくさんいるはず。

そこに「ニュートラルな媒介者」がいることによって、「知恵」自体が伝播し、

じゃあうちの会社で何ができるか考えよう

…という動きのところまで「壮大なバケツリレー」がつながるようになる。

その「媒介者としての役割」を果たすためには、令和人文主義的な「ニュートラルな作法」が絶対的に必要であり、古風な「知の巨人」幻想からするとある種”浅薄に”見えるその作法自体が、むしろ「より広い範囲へのバケツリレー」のために必要なプロトコルなのだ、と言えるはずです。

7. 発信者の世界観の内側からは”全く見えていないところ”まで届かないと本当の変化は起きない

「本を出版する」ことの本当の価値は、「書き手の想像もしなかったところに届く」ことですよね?

よもやこんな人が自分の本を読んでいるとは思いもしなかった!という人が、ちゃんと出版社から出て図書館に収蔵されるようなプロジェクトが回っていくにつれて自分の言説を手に取ってくれるようになり、突然長文の感想メールが届いてびっくりしたりする。

このプロセス全体を見ていると、確かにその「コンセプトのコア」の部分については「書き手」の方が詳しいが、その「実装面」においての課題とか現状の事情とかについては「読み手」の方が”圧倒的に”詳しいのだ・・・という理解が大事になってくるんですね。

話の流れ的にジェンダー論の話を例にとっているけれども、自分は「女性の社会進出」を考えるにあたって、現状のジェンダー論を主導しているグループが、「日本社会や日本企業がどういう論理で動いているのか」に対して理解が薄すぎるし、理解する必要があるとも思ってないようなところがあるのに大変問題意識があるんですよ。世界観が狭い。

結果として「欧米のめちゃくちゃ恵まれた一部の会社の事例」を持ってきて「アレみたいにできないのは日本の意識が低いからだ」みたいな暴論を振り回して全力でジェンダー論への憎悪にガソリンを注ぎまくるようなことをしてしまう。

言説が「ジェンダー論自体に興味ある人の範囲」にしか届いていないので、「そういう人たちのスコープ」でしか話せない。結果としてその「内輪」の話を「社会全員がそのまま丸呑みにしろ!少しでも理解違いがあるのは許さないぞ!」というようなムーブメントになってしまう(少なくともそう見えてしまう)。

一方で、これが「アクティビストやアカデミア」からの「直の接触」ではなくて、「令和人文主義的ニュートラル化」を経たコンテンツがバラバラに市中にばらまかれた時に、

たまたまそれを読んだ人は、”たまたまジェンダー論にもちょっと興味がある”、ある地方の中小企業の経営者(だったり企業の人事担当者だったり学校の先生だったり)」

…するかもしれない。

この時に、「ジェンダー論の知見」と、「日本の地方の中小企業において典型的に今見られる経営課題」的なものに対する読者側の『専門知識』を、

ちゃんと”対等なもの”として”尊重”して見られるかどうか?

…こそがこれからの時代に本当に「バケツリレー」がつながるためには大事なわけです。

そこの「”対等な”知識交換」が成立するようになれば、日本の中小企業という「ローカルな個別課題に対しての深い専門知識」と、「人文知」的なものを深く繋いで、そこに新しい価値が生まれる。

それが「よくある対処法」として定式化されてくれば、そこに本当の「ブレイクスルー」が生まれる。

実際、昨今の日本の中小企業の「人手不足」感はマジでやばくて、

・「雇った若手がやめない」
・伝統的に男しかやらなかった職業に女性が主体的に参加してくれる

こういう構造↑を作り上げることは、経営上「ものすごい重要課題」になってきています。

それができるかどうかでその会社のコスト構造が心底大転換して、競合に対する圧倒的コスト優位性につながる可能性があるぐらいの超重要イシューになっている。

例えば、この記事↓のような事例が今の日本には頻出していて、クライアントの経営者に話すたびに「うちの業界もそうですよ」と笑っていたりする。

平均年齢34歳の左官会社 常識「塗り替えた」存続危機からの復活劇 | 毎日新聞
 建設業の倒産が増えている。特に職人を抱える専門業者が、人手不足で経営難に陥るケースが目立つ。そんな中、昔ながらの左官のしきたりを見直し、復活を遂げた会社もある。

運送業でも建築業でも小売業でもサービス業でも、あと山小屋みたいな特殊な業態でも、ちゃんと丁寧に説明する、理不尽を言わない、女性も普通に働ける環境にする・・・という「モダン化」を丁寧にやることで、競合優位性が俄然高まる構造になりつつある。

「ジェンダー論の研究者」は、「ジェンダー的な課題」について他人より圧倒的に詳しいだろうけれども、「日本の中小企業において生起している独自の課題とかそこで何がボトルネックになっているのか?」という点について、

自分たちは何も知らないし、そこで学ぶべき課題がある

…ということを、忘れてしまいがちなところがあると思います。

これはジェンダー論の話に限らず、何らかのアカデミックな知見をより広い範囲に活かすという時には常に問題になる現象だし、以下記事などに書いたようにそもそも「外資コンサル」的な手法と日本社会の間にすら常に存在する課題としてある。

(月末会員限定記事)『減速ギア人材』という生き方とキャリア論|倉本圭造
(トップ画像はウィキペディアにある”減速ギア”の写真) 月三回の記事の一回分は「購読者向け」の深い話にした方が、せっかく購読してくれてる人にも嬉しいと思うので、そういうコンセプトにしています。 今月に日本や世界であった色んな出来事を振り返りつつ、僕自身の近況も振り返りつつ、面映ゆいようですが「倉本圭造の思想の現在地...

そういう時に、欧米の事例を持ってきて「アカデミア内の内輪の言葉」で殴れば平民どもは平伏して従うべきだ、ぐらいに思ってる(のではないかと誤解されている)ことが、日本だけでなく欧米でも、一種の強大なバックラッシュに繋がってしまっている時代ですよね。

本当は「ローカル社会側の、それぞれの現場」にも「それぞれの専門家」がいるのであって、そこと「対等な関係性」を無数に取り結ぶことこそが今求められているのだ・・・という方向への転換が必要なんですね。

そして、「中小企業側の事情」にフォーカスがビタッとあたったコミュニケーションができれば、そこから先は、

(たとえば)”マイクロアグレッション”という人文知的な概念

を真剣に「現場レベルで実装」し、女性を増やそうとしたけど社食にオッサン向けドカ食いメニューしかないとか、そもそも女子トイレがないとか、そういう「細かいこと」をいかに積み重ねられるかという流れをエンパワーすることができるようになる。

8. 「知の巨人」がなんでもできるわけではない。日々の仕事をしている人たちの無数の集積に敬意を

結局古いタイプの「知の巨人」は、自分は「普通の市井の一般人よりも”あらゆる尺度で”賢い」と自他ともに思ってたところがあって、それが限界を生み出してたんですよね。

「ある特殊な知的議論の分野」においては”専門家”でも、だからといって例えばある商品を仕入れてどういう値付けをすればいいのか?ということについて何十年と毎日考えている人よりも「その分野についても賢い」と考えることは、人間の本来的・本質的な「ほんとうの多様性」に対する冒涜だったわけです。

そういうところで、「知の巨人」を過剰にカリスマ視するから、その「固定的で閉鎖的なビジョン」を無理やり現実社会にねじ込もうとして、柄谷行人氏の例のアレみたいなことになってしまう。

「令和人文主義的なニュートラルなプロトコル」が「人文知」を徹底的にバラ売りし、「思いも寄らないところで思いも寄らない人が読む」形にすることで、

「閉じた知識人の世界」と、「多種多様な現場の知」が、非中央集権的な形で結びついて、一個ずつの「リアルな」変化が起きていく・・・そういう「バケツリレー」方式が実現できるかどうか?

結果として、

「そうか、中小企業において実現可能な範囲とコスト構造において、ジェンダーインクルーシブ化を進めることで人材難を乗り切れるパッケージ的な施策としてはこういうのものがあるのだな!」

…という、

「大きな知」と「現場の知」が本当の意味で『対等』に直結したブレイクスルー

…が起きれば、そこから先はSNSで百万回罵りあっているよりもスムーズに物事は変わっていくでしょう。

そこにこそ本当の「革命」はある。信じて進みましょう。

「知の巨人」を解体することは、それを「小人さんたちの集合体」で再構築しなおすことで、柄谷行人さんみたいな失敗を次はしないで済むようにするための重要なチャレンジなのだということですね!

それは柄谷行人さんを侮辱しているのではなくて、彼のような20世紀の巨人の価値を自らの心底においてほんとうに重視しているからこそ、「じゃあ次は別のやり方でやらなきゃ」となることこそが「本当の敬意と知的誠実さなのでは?」ってことですね。

9. 批評は死んでない。ただ幻想が死んだだけ

そういう意味では、「批評」は死んでない。単に「偉そうな高齢男性の独善性」に幻想を見るのをやめただけです。

もっと多種多様な現場の知が対等に結びつくニュートラルで分散的なプロトコルの先にこそ、本当の「20世紀の批評が目指した」連携の道は生まれてくるのだと信じていきたいですね!

(以下、お知らせ3点の後もう少しだけ続きます)

お知らせ1

この議論にピンと来た方は、ぜひ以下の著書などをどうぞ。

論破という病

お知らせ2

また、文中で何度も触れてきた「敵とも話せるSNS」も、まだまだ参加者募集中です!↓

サイトについて
「メタ正義をベタにやるコミュニティ」(めたべた)では、どんどん治安が悪くなる”オープンなSNS”からの避難所を提供します。 突然罵倒されたりしない安心感のもとで自分の気持ちを吐き出したり、立場の違いを超えて意見を交換したりといった、昔の「ネット黎明期」にはあった可能性を再度信じられる場を目指します。 そうすることで、罵...

大真面目な話もしょうもないことも、「x(Twitter)で出会ってたら絶対敵同士だった」人も含めてワイワイ話しながら生きていくことで、

「人間って本来もっとわかりあえるはずだったんだな」を再発見できる場

…となりつつあります。

週2−3回は僕自身が「ダイジェスト」を発行してSNS内部の議論を「メタ正義」に統合するような考察を配信しているので、「ROM専(読むだけ)」のご参加でも価値を感じていただけると思います。(というつもりで入ってめちゃ発言する人もたくさんいますw)

お知らせ3

また、上記SNSとは別に、多種多様な個人と「文通」しながら人生を考えるという奇特なサービスもやってます。「話に行ける思想家」とアレコレ話してみませんか?→こちらからどうぞ。

長い記事を・・・(ってジャンル的にこの話題に興味ある人にはへっちゃらな文字数だったかもしれませんが)読んでいただきありがとうございました。

ここからは、もう少し普段はしない「哲学・思想」的な言葉をあえて使って、現代人類社会におけるこれからの「日本の知」の可能性、みたいな話をさせてください。

言ってみれば「ポスト・ポストコロニアリズム」みたいなことを日本はやるべきだ、という話になります。

東浩紀さんの「ゲンロン」で、ロシア現代思想を扱った時に、ロシア文学は「グローバルに語り得ないものをグローバルに語るためのフォーマット」として歴史的に機能してきているのだ、という話があって、すごいナルホドと思ったんですよね。

それは、ロシアという場が、欧米から見ると「悪い場所(ポジティブな意味で)」であって、例えばフランスなどではただコンセプトとして堂々とポーンと投げ出してしまえばそれだけで通じるようなことが、「辺境」においてはそうではない。

しかしそういう「難しさ」を抱えている土地だからこそ、「西欧中心主義的なフォーマット」が本当のリアリティにおいて取りこぼしている課題を、「グローバルにわかる形」で再度語り直すための言語を作り出すことができるのだ、それこそが「ロシア文学」が世界中に愛されている理由なのだ・・・みたいな話でした。

僕はそういうのの「日本バージョン」というのがありえると思っていて、そうやって「自分たちの特殊性」にキチンと立脚し、それを徹底的に「レペゼン」していく姿勢を崩さないことによってのみ、本当に「日本発」で世界的に意味がある、今の人類社会の現状に対してリアルなインパクトを持つ言説というのが可能になると思っています。

そういう「ポスト・ポストコロニアリズム」的な日本発の知性のありかたについての構想を聞いて下さい。

つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。


編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2025年11月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。