電通社員の「過労自殺」が労働者を不幸にした

きょうは電通社員だった高橋まつりさん(享年24歳)が自殺してから10年目である。母親はきのう記者会見を開いて「過労死をなくしてほしい」と訴えたが、あの事件は母親の意図とは違う意味で労働行政を大きく変え、労働者を不幸にした。

「過労自殺」が雇用改革を180度変えた

「過労死」というのは日本独特の概念で、今は世界的にもkaroshiで通じる。それは世界にほとんど類例のない奇妙な現象である。自殺するぐらいなら会社をやめればいいのだが、会社という共同体に埋め込まれた日本の会社員にとって、会社をやめることは死ぬよりつらいのだ。

高橋さんの自殺した2015年12月は、国会で「働き方改革」法案が審議されているときだった。これは安倍政権の目玉で、財界の要請で労働時間や解雇の規制緩和で経営の自由度を上げようという法案だった。

ところがその矢先に起こった電通事件で、働き方改革の意味は180度変わった。高橋さんの母親はあらゆるマスコミに出て長時間労働の禁止を訴え、電通にマスコミの批判が集中し、検察は強制捜査を行い、電通の石井社長は辞任に追い込まれた。

これを機に安倍政権は、長時間労働の規制強化に転換した。当初は労働基準法を改正して解雇ルールをつくる予定だったが、これも棚上げになり、2019年には労働基準法で週45時間以上の時間外労働を禁止する改正がおこなわれた。

この結果、安倍政権の8年間に労働時間は年間100時間も減り、労働供給が日本経済のボトルネックになった。人手不足の大きな原因は、この労働時間の不足なのだ。

常用労働者1人平均年間総実労働時間数(労働政策研究・研修機構)

人手不足の原因は「解雇ルール」なき労働市場

さらに大きな問題は、解雇ルールが実現しなかったことだ。日本以外では当たり前で、日本でも外資は当たり前にやっている解雇の金銭解決が法制化できないため、大企業は希望退職の募集しかできず、雇用が流動化しない。

その結果、事務職は求人倍率が0.4倍なのに、建設労働者は9倍という雇用のミスマッチが起こっている。事務職の求人は今後、AIの普及で激減することが見込まれるので、ミスマッチはさらに拡大するだろう。

日本経済新聞

解雇ルールは経済学者が20年前から提案してきたが、連合も日商も反対し、与野党にも改革勢力がいないので先送りされてきた。マスコミもお涙ちょうだいの報道でそれをあおっているが、こういう雇用慣行は労働者を幸せにしているのだろうか。

国際的なアンケート調査では、日本ではいま働いている会社が好きな「熱意ある社員」が主要国でもっとも少ない。他の会社を選ぶ自由がないからだ。

こういう会社に骨を埋める時代は、もう終わった。これからは事務労働はAIで置き換えられるので、人間は非定型的なサービス労働に特化するしかない。定年まで勤務するサラリーマンだけが「正社員」だという通念をなくさないと、「日本病」の長期低迷から回復できない。

それは生産性向上のためだけではなく、労働者にとっても必要だ。彼らを時間で拘束されて時間で賃金をもらう労働から解放して裁量を拡大する改革は、労働者の自由のために必要なのだ。