
朝日新聞
不破哲三氏が死去した。今では共産党に日本が改革できると思っている人はいないだろうが、私の学生時代には共産党に対する期待もあった。それはリベラルな上田兄弟(上田耕一郎・不破哲三)が党の中枢にいて、スターリニストの宮本顕治と闘っていたからだ。
委員長が「自己批判」して宮本顕治に屈服した
しかし1983年7月の『前衛』で、上田兄弟は「自己批判」を発表した。それは1950年代に彼らの書いた『戦後革命論争史』が「党内問題を党外に持ち出した」という反省だったが、当時、不破は委員長、上田は副委員長だったので、この自己批判に党員は驚愕した。
そこには深刻な党内闘争があり、上田兄弟はレーニンの「民主集中制」をゆるやかに解釈し、党外での議論も許す立場だったが、宮本議長は異論を厳格に排除した。この自己批判は、上田兄弟が宮本に屈服し、宮本のスターリニズムが勝利した転換点だった。
普通このような分派闘争は、党の主流と反主流の間で行なわれるものだが、不破は1982年に委員長になった最高責任者である。それが分派闘争を自己批判するのは異例だが、党としての処分は行なわれなかった。
なぜ自己批判が行なわれたのか。党を除名された松竹伸幸氏によれば、この時期に有力な党員から民主集中制に対する批判が相次ぎ、その対応をめぐって宮本と上田兄弟が対立し、最終的に上田兄弟が敗北したからだ。つまり党内の最高権力者は宮本議長だということを党内外に示したわけだ。
日本で育たなかった構造改革
この背景には、1950年代以来の路線論争があった。山村工作隊などの暴力革命路線が挫折したあと、上田兄弟などはイタリアのトリアッティなどの構造改革派の影響を受け、議会を通じて改革しようとしたが、宮本など戦前からの幹部は暴力革命路線を守ろうとした。
結果的には宮本が勝利を収め、上田兄弟は自己批判して党に復帰した。このとき党に復帰しなかった長洲一二や安東仁兵衛などが社会党の構造改革派として江田三郎を支援したが、社会党でも反主流として排除された。
1960年代は欧州でユーロコミュニズムが支持され、イギリスでもドイツでもフランスでもイタリアでも社民勢力が成長し、政権をとった時期だったが、日本では革新自治体止まりだった。極左的な社共共闘では、国政をになう政権はできないからだ。
予想外に長生きした宮本顕治
上田兄弟の本音は、1908年生まれの宮本が実権を失ったら、共産党を構造改革に軌道修正しようという面従腹背だったと思う。私は上田耕一郎には一度、取材したことがあるが、宮本のスターリニズムとはまったく違う気さくな人だった。
しかし宮本は権力を手放さなかった。彼が議長に退いたあと、上田兄弟は党内人事でリベラル派を起用しようとしたが、宮本はこれを阻止し、東大細胞の「新日和見主義」と呼ばれた新左翼勢力を追放した志位を35歳で書記局長に抜擢した。
書記局で人事を掌握した志位はスターリンに対するベリアのような役割を果たして党内の反宮本派を粛清し、その功績で2000年に46歳で委員長になり、不破は議長に退いた。この人事も宮本が主導したもので、このとき上田兄弟の路線は最終的に挫折したのだ。
日本の失われた政権交代
もし宮本が1980年代に議長を引退していれば、冷戦終了後に不破委員長がもっと大胆な路線転換ができたと思うが、宮本は90年代まで人事権を離さず、党の実権は宮本=志位路線に移った。その後も構造改革派の幹部は党を追われたが、不破氏だけは議長という名誉職の地位を守った。
その後の党の路線は極左化して、野党共闘からも排除されるようになった。しかし社会党がまだプロレタリア独裁を捨てていなかった1950年代に、上田兄弟は幅広い野党の連携による平和革命を提唱したのだ。
自民党という理念も政策もない政党が長く政権の座にいるのは、それに対抗する社会民主主義の党が育たなかったからだ。上田兄弟が党内闘争で勝っていたら共産党が野党の核になり、欧州のような政権交代できる社民勢力ができたかもしれない。合掌。





