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よもぎ蒸し、というものを初めて体験した。
バンクーバーで出会った田辺陽子さんという女性が、自宅でサロンをやっている。3人の子どもを育てながら。保育園の送り迎え、ご飯、洗濯、風呂、寝かしつけ。書いているだけで疲れる。それを毎日やりながら、なぜサロンなんか開いたのか。
『「自分のかたち」のまま、これからも私は ALL GENDER(オールジェンダー)の国で出会った8人の“私たち”』(貝津美里 著)WAVE出版
「お母さんが自分を大切にする時間を持ってほしいんです」
ああ、そういうことか。
よもぎ蒸しというのは、要するに下半身から蒸気を当てて身体を温める療法らしい。婦人科系にいいとか、デトックスとか、まあいろいろ効能はあるんだろう。正直、そのへんはよくわからない。
ただ、体験してみて思ったのは、そういう「効能」の話じゃないな、ということだった。
マントを被って、蒸気の出る椅子に座る。40分、じっとしている。それだけ。本当に、それだけ。
陽子さんは別室にいて、私を放っておいてくれた。ほったらかし、じゃない。ちょうどいいタイミングで「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。でも基本的には、一人にしてくれる。
これが、泣けた。
なんでかわからない。でも、温かい蒸気に包まれながら、ぼんやり橙色の照明を見ていたら、いろんなことが頭に浮かんできて。生きづらさに途方に暮れたこと。がむしゃらにもがいたこと。一人でバンクーバーに来たこと。
「残り10分です。マントを頭から被って温まってもいいですよ」
陽子さんの声で我に返った。言われた通りにすると、温かい暗闇に包まれた。まるで子宮の中みたいだ、と思った。何もしなくていい。何も考えなくていい。ただ、そこにいるだけでいい。
これだ。これを、彼女は届けたいんだ。
母親というのは、「何かをする」ことを常に求められている。ご飯を作れ、掃除しろ、子どもの面倒を見ろ、仕事もしろ、笑顔でいろ、完璧であれ。「母親なんだから当たり前」という呪いの言葉とともに。
でも、「何もしない」時間がなければ、人は壊れる。当たり前だ。機械じゃないんだから。
陽子さんは言った。「子どもの手を引くやさしい顔も、一緒に笑い合う顔も、時には疲れた顔や叱る顔も、全部『その人にしかできないお母さんの顔』ですから。疲れ果てる前に、羽を休めてほしいんです」
子育ては「毎日が修業」だと、彼女は笑っていた。修業って。まあ、そうだろうな。
いい母親ってなんだろう。正解なんかない。でも少なくとも、「完璧な母親」を目指して壊れていく必要はない。休んでいいんだ。というか、休まないとダメなんだ。
サロンを出るとき、陽子さんが言った。「またいつでも来てくださいね」
バンクーバーに来て初めて、「いつでも来ていい場所」ができた。それが、なんだか無性にうれしかった。
※ ここでは、本編のエピソードをラノベ調のコラムに編集し直しています。
尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)
■ 採点結果
【基礎点】 38点/50点(テーマ、論理構造、完成度、訴求力)
【技術点】 20点/25点(文章技術、構成技術)
【内容点】 19点/25点(独創性、説得性)
■ 最終スコア 【77点/100点】
■ 評価ランク ★★★ 標準的な良書
■ 評価の根拠
【高評価ポイント】
- 体験の具体性:バンクーバーでの日常風景、よもぎ蒸し体験など、五感に訴える描写が読者を引き込む力を持っている
- テーマの普遍性:「子育てのしやすさとは何か」「母親の休息の重要性」という問いは、多くの読者が共感できる社会的テーマである
- インタビュー対象の選定:実在の人物を通じて、抽象的な議論を地に足のついた物語に変換している
- 情景描写力:「温かい暗闇は、まるで子宮の中にいるようだった」など、比喩表現が効果的に機能している
【課題・改善点】
- 日加比較の深度不足:カナダと日本の比較が印象論にとどまり、制度面や歴史的背景への言及が薄い
- 構成の散漫さ:著者自身の内省、カナダ社会論、よもぎ蒸し体験が混在し、章としての焦点がやや定まりにくい
- データの欠如:「日本の母親が感じるプレッシャーは大きい」等の主張に客観的根拠が示されていない
■ 総評
本書は、バンクーバーでの生活体験を通じて「子育てしやすい社会とは何か」を問いかけるエッセイとして、一定の訴求力を持っている。「母親が休める場所」の意義を描いた箇所は、具体的かつ情感豊かで読み応えがある。
一方で、日本とカナダの比較がやや表層的であり、「なぜカナダではそれが可能なのか」という構造的な分析が不足している点は惜しまれる。個人的な体験記としては魅力的だが、社会批評としての説得力を高めるには、もう一段の掘り下げが求められる。子育て中の読者が「自分を許していい」と感じられる一冊として、共感を呼ぶ可能性は十分にある。







