天草諸島の旅をしました。
旅色のメンバーや、九州勤務時代に知り合った人から「天草はいいところだ!」と口々に言われ続けていて、ずっと行きたかった場所です。こんなにいろんな人から絶賛されているのだから、きっと素晴らしいところなのだろう。ハードルを上げられた天草諸島はすこしプレッシャーがかかっていたかもしれません。

天草四郎ミュージアムと天草四郎像。
天草といえば、天草四郎。名前くらいは聞いたことがある人も多いと思います。天草に渡ってまず最初に訪ねたのは天草四郎ミュージアム。天草四郎が関わった島原の乱や潜伏キリシタンについての展示をする博物館です。
禁教令の敷かれた江戸時代、天草は時の支配者によって重税が敷かれ、人々が貧困にあえいでいました。キリスト教信者に対しても処刑を行うなど苛烈な制裁を加えていきます。
そんな中、裕福な家庭で育ち、教養のあったことからカリスマ性を持っていた益田四郎が中心となって、圧政からの脱却を求めて天草や対岸の島原半島にある原城に立てこもって幕府軍に対して反乱を起こします。これが島原の乱。天草も戦場となったことから、天草・島原一機とも呼ばれる戦いです。

天草四郎ミュージアムのマリア像。
原城の戦いの末、四郎たちの軍は敗れますが、この地のキリシタンは宣教師が日本から追放されてからもこっそりと信仰を守り続け、明治初期の禁教令の終了まで脈々と信仰が受け継がれていきます。約250年もの間、宣教師のない状態で当局の目を逃れながら進行を守り続けていた世界でも稀にみる事例であることが評価され潜伏キリシタンに関する史跡が世界遺産に登録されています。

そんな世界遺産に登録された潜伏キリシタンの史跡のひとつが、天草諸島の中で最も西にある天草下島の南部にあります。1934年に建設された﨑津協会です。内部は撮影できませんが、教会建築ではあまり見ることのない畳敷き。ステンドグラスから優しい光が注ぎ込んでいました。
キリスト教布教の時代、﨑津集落では1569 年イエズス会修道士アルメイダによって布教が開始されました。キリスト教の禁教令が出されたあともアワビの貝殻の内側の紋様をマリアの姿に見立てて250年もの間、親から子へ信仰を受け継いできました。
この教会が建てられたのは、かつて奉行がキリスト教信者かどうかを試すため、踏み絵を敷いた場所。敢えてここに教会を建てたことで、信者の長い苦難の時代を忘れずに信仰を受け継いでいく固い意思が窺えます。


崎津教会のすぐ近くにあるのは崎津諏訪神社。豊漁を祈願する神社として建てられましたが、キリスト教信者が神社の氏子となることで神道信者であると主張できるようにし、ここでオラショ(お祈り)を捧げることを許していました。崎津集落でキリスト教信仰が残るのに大きな役割を果たしたと言われています。1805年に幕府にキリスト信者がいることが発覚する「天草崩れ」が起きた際は幕府が信具を差し出すよう求めた場所にもなりました。

崎津諏訪神社から教会方向を望む。

神社に登る階段の脇には崎津教会の修道女が住んでいた家が残されています。禁教令が解除された明治時代、崎津教会が建つ前はここに教会が建っていました。写真左端にマリア像が残されています。

崎津集落の家には一年中しめ縄が飾られています。こうすることで私は神道の信者であってキリスト教信者ではないですよ、とカモフラージュしていました。

崎津集落の西端には「海上マリア像」と呼ばれる像を見られる場所があります。

こちらがそのマリア像。地元の漁師たちが今も航海の安全と豊漁を願って祈りを捧げています。時期が合えば夕暮れ時にマリア像の真後ろに夕日が沈んでいく絶景を見ることができるそうです。

島の小さな漁村で250年以上もの間、神道などの影に隠れつつキリスト教信仰を続けてきた崎津集落。その苦労は筆舌に尽くしがたいものだったと思います。崎津教会は、今日もその苦難を癒すように船の向こうで集落の人々の幸せを見守っています。
編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2026年2月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。






