人生とは

私は此の「北尾吉孝日記」で以前、『人生について』次のように述べたことがあります(2007年10月10日)――葬式が終わりますと、皆でご飯を食べながらお話をします。その故人について語り合うのです。そうした席ではその人がどういう社会的地位を得たか、どういう名誉を得たか、どれだけ財産を築いたかといったことは一切話題にもなりません。「あの人はやさしい人だったね。」「あの人はよく気がつく人だったね。」こういうことが話題となります。つまり故人の人となり。更に言いますと、その故人の内面であり、心であり、精神。それが唯一の話題となるのです。このような場面に出会い、これが「人生とは何か」という問いに対する答えを考えるヒントなのかもしれないとふと思いました。

人は皆それぞれ異なる価値観を持ち、人は皆一度の人生しか生きられません。従って「人生はこうだ」と、一概には語り得ないでしょう。人生とは複雑怪奇で、実に難しいものだと思います。デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴール(1813年-1855年)も言うように、「人生は解のある問題ではなく、経験の積み続く現実です」。だから私は、正しい道を歩んで行くという一点こそが人の生き方として大事なことだと思っています。即ち何が人生かというよりは、「人間如何に生くべきか」を考え続けるのがある意味人生であり、そこに尽きると思うものです。

英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(1883年-1946年)が残したとされる言葉に、「It is much more important how to be good, rather than how to do good」とあります。如何に善を為すか(how to do good)よりも、如何に善で在るか(how to be good)が大事である、ということです。如何に善で在るかとは、徳のことであります。第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(121年-180年)が『自省録』で言うように、「人間の真の価値は、何を目指すかによって判断される」わけで、結局人間の第一義とは何を為すかではなく、その人が何を目指しているかということなのです。人生、良かったり悪かったりの繰返しです。波瀾万丈の繰返しにあって真の自分自身、人間としての在り方の根本を考える時が訪れましょう。

最後に、安岡正篤先生の御著書『人生をひらく活学』より、次の言葉を御紹介しておきます――勿論ずるいことをやったり、人を押しのけたりして、地位や財産をつくるのも人間の能力、知能の一つであります。それを使っていろいろのことができる。できるけれども、そんなことができても、これは人間としては少しも偉いことではない。社会的には偉いかも知れぬが、人間としてはむしろ恥ずべきことであります。何を為すか、何をしたかということと、彼はどういう人間か、如何にあるか、ということとは別である。運命に恵まれなければ、又本人が欲しなければ、本質的に立派な人でも、別に何もしないで終わることもある。(中略)「如何に善を為すか」ということは案外当てにならぬものでありまして、大事なことはやはり「自分はどういう人間であるか」ということであります。それを明らかにすることを「明明徳」(明徳を明らかにする)と言う。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2026年2月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。