「40代独身」は具体的にどう狂うのか?

黒坂岳央です。

SNSで「40代独身は狂う」という言説がバズっており、それぞれの狂い方が寄せられている。中には筆者の感じていた狂い方とも異なるケースもあり、なかなかに興味深い。本稿では筆者の一次情報、体験ベースによる狂い方を取り上げる。

免責:最初にしっかり断っておく。これは社会学的な「傾向」の話であり、独身者や特定の個人への批判では一切ない。当然、既婚者にも狂っている人間は存在するし、この内容が独身者全員に当てはまるわけでもない。

もちろん、自分自身も例外ではなく、黒坂を「狂った人間」と見る人もいるだろう。それは否定しないし、冷静に受け入れるつもりだ。本稿は社会科学的な観点で考察する意図を持って書かれた。

あくまで自分が見てきた「傾向としての差」は実在すると思っているのでそこを書いていく。

visualspace/iStock

一体、何が「狂う」のか?

「狂う」というワードは強烈な印象があり、誰しも精神疾患と捉えると傾向があるだろう。だが、筆者がここでいう「狂う」とは社会的キャリブレーションの停止と定義する。

キャリブレーションとは、ズレを検知して修正する機能のことだ。計器が狂うとは、針が実態と乖離したまま修正されない状態を指す。人間も同じメカニズムで狂う。

わかりやすく一言で言おう。端的に狂いとは「認知の歪み」のことだ。独身の立場が継続して本人の中では若い頃の感覚が維持されるが、社会から年齢相応の期待値が上がって発生する「ズレ」である。

決して本人がダメだとか、精神疾患を持っているとかそういうことを言っているのではない。同時に、既婚者ならではの認知の歪みも当然ある。あくまで独身者に見られる「傾向の差」と解釈頂くと幸いだ。

では独身の40代において、なぜキャリブレーションが停止するのか。次の項目から取り上げていく。

若い欲求のまま止まる

中年独身者から言われることに、「この年になっても中身は何も変わらない。自分は今でも朝までゲームして、海辺で騒ぎたい」とか「今でも友達と夜通しバカ話、恋バナで盛り上がりたい」といった欲求を聞くことがある。

だが、こうしたよく聞く意見に自分はあまり賛同できない。「中身は昔から何も変わらない」ということはなく、結婚、出産、育児というライブイベントにより、パパママ、保護者と役割を与えられて中身のアップデートが強制的に行われるからだ。

筆者は子供からせがまれ、毎日、庭にサッカーゴールを作ってゴールキーパーやドッジボールの相手をしている。また、雨の日は人生ゲーム、UNO、神経衰弱、カラオケなども付き合う。まるで、学生時代にやりそうなことを子供と毎日やっているのだ。

そのため、「大人同士ではしゃぐ」という発想が生まれることはまずない。毎日、それを子供とやっているからだ。

ライブイベントの解像度が低い

昨年、旧友5人で食事をした。筆者を含む2人が育児中、残り3人は10年近く婚活を続けたが結婚に至らず、現在は婚活をやめた状態だ。彼らから「どうやって結婚できたのか」「結婚生活はどうか」という質問をされ、こんな言葉が出た。「結局、結婚ってメリットがまったくないよね。結婚なんてやらなくてよかった」と。

おそらく彼らの言うメリットとは、経済的合理性や数値化できる社会的便益のことだろう。だが筆者も妻も、メリットなど計算した瞬間は一瞬もない。ただ一緒にいたかった、それだけだ。そこまでメリットと内包するかは定義次第だが、少なくとも経済的、社会的メリットなどは考えない。恋愛結婚をした人間は同じ感覚を持つ人も少なくないはずだ。

もちろんある程度のスペック前提でないと、結婚が進まない事実を否定しない。だが彼らの発言を聞いて感じたのは、結婚という現象を「打算でのみ説明できるもの」「男性側に結婚のメリットがなく、結婚をするのは損をしている人たち」という狭いフレームで捉えているということだった。

また、こうした解像度の差は結婚に限らず、あらゆるライフイベントに現れる。独身者も結婚式には参加する。だが参加者と主催者では、得られる経験値が根本的に異なる。

たとえば参加者側しか経験がないと「自分がいかに丁重なもてなしを受けたか」という「消費者側の視点」しか生まれない。自分もかつてはそうだった。だが、主催者側に立っておもてなしを提供者側を経験すると、それ以降参加する結婚式は「主催者側の視点」も見えてくる。

念のため言うが、これは彼らを責めているのではない。経験値の差が生む認知の非対称の話に過ぎない。経験したことがないことをわかるのは無理だからだ。

承認欲求の行き場が違う

人間の承認欲求は本能である。ゆえに消すことはできない。問題はその消費先だ。

親になると、承認欲求は日常的に自然消費される。子供の反応、配偶者との関係、学校コミュニティでの役割など、これらが承認の受け皿として機能するので「外部」に強く出ることはあまりない。あくまで保護者同士、学校関係者などのコミュニティ内で消費されやすい。

一方で独身者の場合、承認欲求を自分で消費することになる。結果としてSNSやAIチャットへの過剰依存、あるいは特定のコミュニティへの傾倒という形で現れる。若い頃なら、SNSで高級体験自慢という黒歴史は誰しも一度は通る道なのだが、中高年でそれをしてしまうというメタ認知のなさを観測することがある。

厳密にいう。一体、何がズレているかというと、中年で高級自慢をして「羨ましい」と感じる人はいないため、周囲は冷めた目で見るが、当の本人は成功していると勘違いしてしまうので目的達成に失敗しているのだ。

筆者の場合、人並み以上に承認欲求が強めであったので失敗経験がある。高級ブランド自慢を恥ずかしながら20代でやらかしたことがある。だが、今は落ち着いた。

家庭内、地域のコミュニティ、そして仕事の発信活動で消費しているので、20代でやるような稚拙な自慢はやろうとは思わなくなった。だが仮に自分に家庭がなければ、溢れた承認欲求で狂っていた可能性は否定できない。

与えてもらう側の発想

ある程度の年齢になると、周囲の期待値が変わる。会社では部下の課題を引き受けるマネージャーとして機能することを求められ、家庭では子供の「やりたい」に付き合い続けることが日常になる。そう、大人になるということは「与えてもらう側から与える側への移行」なのだ。

ところが独身で仕事もポジションが変わらなければ、与えてもらう側の感覚が変わらず残りやすい。「会社や社会は自分にこうしてくれない」「あの人は気が利かない」と常に他罰的な評価軸を中高年になっても手放せない人間になりやすい。受け取る側のポジションから自発的に降りられない。

こういう感覚が悪いとは言わない。20代は誰しもそうだし、自分もそうだった。口を開けば「会社が与えてくれない、親がやってくれない」と周囲から与えてもらうことが前提である口ぶりだった。

若ければ周囲から注意を受けたり、今後の発展にもベットしてもらえる。自分も散々、職場の上司や先輩から「お前、いつまでお客様気分なんだ。お前は給料もらっているんだからサービス提供者側だろうが」と叱られて目が覚めた経験もある。

だが、いい年をしていつまでも「自分は与えられない不遇な人間だ」といっていると、周囲には甘えや幼稚さとして映る。だが本人は若い頃と感覚が変わらないから自分では周囲の見方が変わったことに気付けないのだ。

これまで独身者が陥りやすい認知の歪みを取り上げた。だが、これは独身であることが決定打になるわけではなく、あくまでその環境でなりやすいという話に過ぎない。つまり、意識すれば認知の歪みも起きないということを意味する。

たとえば仕事だ。市場から直接フィードバックを受ける仕事をしていれば、認知の歪みは即退場になるので強制的に強く意識せざるを得なくなる。また、意図的にライフイベントに当事者として関わる機会を作れば社会的なつながりや役割は自然と、年齢相応になっていく。

これらを自力で構築できる人間は、独身であっても社会的キャリブレーションが機能し続ける。逆に言えば、環境に任せておくと自然にキャリブレーションが止まる構造が独身者には存在する。それが「40代独身は狂う」という意見の実態だと筆者は見ている。

2025年10月、全国の書店やAmazonで最新刊絶賛発売中!

なめてくるバカを黙らせる技術」(著:黒坂岳央)

アバター画像
働き方・キャリア・AI時代の生き方を語る著者・解説者
著書4冊/英語系YouTuber登録者5万人。TBS『THE TIME』など各種メディアで、働き方・キャリア戦略・英語学習・AI時代の社会変化を分かりやすく解説。

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント