コンクラーベ(教皇選出会)でペテロの後継者ローマ教皇に選出された後、ロバート・フランシス・プレボスト枢機卿は自身の教皇名を「レオ13世」とすることを明らかにした。その理由について、「教皇レオ13世(1810年~1903年)は、歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』の中で、第一次産業革命の文脈における社会問題について初めて言及した教皇だ。そして教会は今日、人間の尊厳、正義、労働の保護などを突きつける新たな産業革命と人工知能(AI)への対応が求められている。現代の世界がレオ13世時代(在位1878年~1903年)と同じ社会課題に直面しているという認識から、『レオ13世』の後継者として『レオ14世』という教皇名を選んだ」(バチカンニュース)ということだった。

第256代ローマ教皇レオ13世、ウィキぺディアから
レオ13世は一般的には、「産業革命で搾取される労働者の権利の擁護と、資本主義の行き過ぎに警告を発した社会派教皇だった」と言われてきた。前教皇フランシスコが自身の教皇名を尊敬する貧者の聖者、アシジの聖フランシスコから取ったように、米国人のプレボスト枢機卿は自身の教皇名をレオ13世の足跡を継承するという意味から「レオ14世」としたわけだ。
ところで、レオ13世の教皇時代の言動を振り返ってみた。レオ13世はハプスブルク帝国の皇帝フランツ・ヨゼフ1世の警告を無視して、ウィーン市長にカール・ルエーガ―の就任を認めているのだ。ルエーガ―は当時、ウィーン市民から愛される政治家だったが、同時に、激しい反ユダヤ主義的扇動で知られていた。
ルエーガ―は1885年、キリスト教社会党を率いてウィーン市議会選挙で圧倒的な勝利を収めたが、フランツ・ヨゼフ1世はルエーガ―が危険な政治家であるとして、市長への承認を4回拒否してきた。皇帝から就任拒否を突きつけられ、ウィーンの市政が麻痺しかけたが、その事態を動かしたのがローマ教皇レオ13世だったのだ。
オーストリアの一部の高位聖職者(保守的な司教たち)は、ルエーガーの過激な手法や反ユダヤ主義を嫌い、バチカンに「ルエーガーの党を禁止してほしい」と直訴していた。ルエーガーは当時、民衆の支持(ポピュリズム)を集めるため、激しい反ユダヤ主義的煽動を行った。多民族・多宗教の帝国を維持し、全臣民の平等を建前とする皇帝にとって、特定の層を排斥するルエーガ―は社会秩序を乱すデマゴーグ(煽動政治家)に映った。ルエーガーの政治スタイルは、ハプスブルク王朝の伝統的な支配体制を脅かす「危険な革命分子」に見えたからだ。
しかし、レオ13世は逆にルエーガーとその政党を支持する決定を下したのだ。レオ13世は、当時台頭していた「神を信じない社会主義(無神論)」や、教会を軽視する「自由主義(リベラリズム)」を最大の脅威とみなしていた。ルエーガーは熱心なカトリック信者であり、労働者や下層中産階級(民衆)を味方につけてカトリックの価値観を守ろうとしていた。教皇は自身の有名な社会回勅『レerum Novarum(レールム・ノヴァールム)』の精神に基づき、民衆に根ざした新しいキリスト教社会運動として、ルエーガーの活動に「お墨付き(祝福)」を与えたのだ。
バチカン側からの事実上の調停(介入)があったことで、皇帝フランツ・ヨゼフ1世も折れざるを得なくなった。帝国の最高精神的支柱であるカトリック教会のトップが認めた人物を、いつまでも拒否し続けることは政治的に不可能だったからだ。1897年、5回目の選出を経て、皇帝はついにルエーガーのウィーン市長就任を承認した。
それだけの話なら問題ではなかった。歴史家によると、ルエーガ―の政治スタイル、「近代的ポピュリズム」と「反ユダヤ主義の煽動政治」は、当時ウィーンに暮らしていた若き日のアドルフ・ヒトラーに決定的な影響を与えたという。
実際、ヒトラーは著書「我が闘争」第1巻第3章でカール・ルエーガーを「Heute sehe ich in dem Manne mehr noch als fruher den gewaltigsten deutschen Burgermeister aller Zeiten.」と称賛している。ヒトラーはルエーガーの政治的手腕や大衆扇動術を高く評価し、ナチズムのモデルとしたわけだ。
19世紀末から20世紀初頭にかけてウィーン市長を務めたルエーガーとヒトラーは、直接的な面識や個人的な付き合いはなかったが、ルエーガーは若き日のヒトラーに極めて大きな思想的・政治的影響を与えた人物であり、ヒトラーの「政治の師」として歴史的に位置づけられている。
ルエーガーは「キリスト教社会党」を率い、大衆の支持を集めるために反ユダヤ主義(アンチセミティズム)を政治利用した。1907年から1913年にかけて青年期をウィーンで過ごしたヒトラーは、ルエーガーがユダヤ人をスケープゴートにして下層・中産階級の不満を吸収する姿を目の当たりにした。ヒトラーはこの手法を学び、後にナチスにおける過激な反ユダヤ主義政策に応用していった。
また、ルエーガーは、巧みなプロパガンダと圧倒的な雄弁さで民衆の心を掴むポピュリズム(大衆迎合主義)の天才だった。ヒトラーは、それまでのエリート主義的な政治とは異なる、近代的な「大衆の動員方法」をルエーガーの政治運動から学んだ。
ちなみに、歴史でイフはタブーだが、ルエーガーがウィーン市長に就任できなかったならば、ヒトラーへの影響も限定的に終わったかもしれない。レオ13世はルエーガーの政治的危険性を過小評価したため、ヒトラーが後日、ルエーガーから学んだ政治スタイルを駆使してドイツで政権を奪い、ナチス・ドイツの蛮行へと突き進んでいったわけだ。
米国人のプレボスト枢機卿はそのレオ13世を社会的問題に関心がある教皇だったという理由で高く評価し、自身の教皇名につけた。ローマ教皇は共産主義が台頭した時もその正体を正しく認知できなかった。歴史は繰り返されるのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年5月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







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