国際医学誌は中立な神殿ではない:コクラン、製薬会社、医学誌の政治性

(前回:税金で研究し、無償で査読し、金を払って読む:学術出版ビジネスの不都合な真実

前回は、国際医学誌を支える学術出版ビジネスについて書いた。

税金で研究し、無償で査読し、金を払って読む:学術出版ビジネスの不都合な真実
(前回:Lancet掲載は印籠ではない:コロナ禍で乱用された医学誌とエビデンスの権威)前回は、コロナ禍で乱用された国際医学誌と「エビデンス」の権威について書いた。「Lancetに載った」「NEJMに出た」「BMJが報じた」という言葉は、しば...

税金で研究し、研究者が無償で査読し、大学や研究機関が購読料を払い、著者側がAPCを払う。学術出版は、知の流通であると同時に、巨大な市場でもある。

今回は、さらに踏み込む。国際医学誌は、本当に中立な論文倉庫なのか。

結論から言えば、そうではない。

国際医学誌には編集方針があり、政治性があり、産業との緊張関係がある。これは「医学誌は信用できない」という意味ではない。むしろ、医学誌の影響力が大きいからこそ、その構造を冷静に見なければならないという話である。

象徴的だったのが、マスクをめぐるCochraneレビューである。

Cochraneは、エビデンスに基づく医療の世界で非常に大きな権威を持つ。ところが2023年のマスク等に関するレビューをめぐって、「マスクは効かないことが示された」と読む人々と、「そこまでの結論は出せない」とする編集部側の説明、さらに筆頭著者Tom Jeffersonの反発がぶつかった。

Cochrane編集長は、「マスクは効かない」という解釈は不正確で誤解を招くと声明を出した。一方でJeffersonは、声明が著者側に十分な相談なく出されたとして強く反発し、Cochrane leadershipに抗議すると述べた。

つまりこれは、一般読者やメディアがレビューを誤読しただけの話ではない。

同じレビューをめぐって、著者、編集部、メディア、政治的陣営、政策担当者の間で解釈権が争われたのである。論文やレビューは、掲載された瞬間に社会へ投げ込まれ、著者の意図と編集部の意図が一致するとも限らない。

同じレビューでも、ある人は「マスクは無意味だった」と読む。別の人は「研究の質や遵守率の問題があり、結論は不確実だ」と読む。さらに別の人は「だからマスク義務化は正当化できない」と政策論に持ち込む。

このどれもが、単なる科学の問題ではない。エビデンスは紙の上に存在するだけではない。誰がどう読み、どう社会に流通させるかによって、政治的な力を持つ。

コロナ禍では、医学誌ごとの姿勢の違いも見えた。

NEJMは米国のコロナ対応に対して、編集部名義で政治的に踏み込んだ批判を行った。これは、医学誌が単なる論文掲載媒体ではなく、公共政策に対して発言する主体でもあることを示した。

BMJは、ワクチン試験のデータ完全性をめぐる調査報道や、Facebookのファクトチェックへの批判で存在感を示した。情報統制、科学報道、プラットフォーム企業による「正しさ」の判定に対して、医学誌自身が異議を唱えた例である。

Lancetもまた、コロナ禍で大きな政治的緊張の中に置かれた。コロナ起源、感染対策、ワクチン、公衆衛生政策をめぐって、医学誌の論文や声明は科学界だけでなく、外交、メディア、世論にも影響を与えた。

ここで重要なのが、編集上の独立性である。

たとえばThe LancetのRichard Hortonは、1995年から編集長を務める異例の長期編集長である。長期在任の編集長は、出版社や外部圧力に対して一定の編集上の自律性を持ちやすい。実際、The LancetはElsevier傘下にありながら、強い編集方針を持つ医学誌として知られる。

しかし、独立性は中立性と同じではない。

強い編集長がいるということは、外部圧力に屈しにくいという利点を持つ一方で、その編集長自身の問題意識、政治的感覚、倫理観が雑誌の色として強く出るということでもある。Hortonはコロナ禍で政府対応を強く批判し、科学と政治の境界に自覚的に踏み込んだ編集長だった。

これは、The Lancetが信用できないという意味ではない。国際医学誌が単なる論文倉庫ではなく、編集者の思想と判断によって方向づけられる公共的メディアでもあることを示している。

そして、有名誌であっても間違う。

その典型が、2020年のSurgisphere問題である。The Lancetは、Surgisphere社のデータを用いたヒドロキシクロロキン論文を掲載したが、その後、基礎データを十分に検証できないとして撤回した。この論文は各国の政策や臨床試験にも影響を与えたとされ、高IF誌の査読と編集であっても、緊急時には重大な誤掲載を防げないことを示した。

この事例は、医学誌を全否定する材料ではない。むしろ逆である。権威ある医学誌ほど、誤った論文が載ったときの社会的影響は大きい。だからこそ、査読、データアクセス、利益相反、撤回の透明性が問われる。

さらに、医学誌と製薬会社の関係も避けて通れない。

医学誌には医薬品広告がある。製薬会社が資金提供した臨床試験が掲載されることもある。有名誌に掲載された論文の別刷りが大量購入され、医師や関係者に配布されることもある。別刷りは、製品の信頼性を補強する営業資料として機能し得る。そこでは、雑誌の権威そのものが製品の信用に転化される。

もちろん、これをもって「医学誌は製薬会社に買収されている」と言うのは粗すぎる。

多くの編集者や査読者は、真剣に科学的妥当性を守ろうとしている。多くの臨床試験は医療の進歩に不可欠であり、製薬企業の資金なしには実施が困難な大規模研究もある。薬やワクチンが多くの命を救ってきたことも事実である。

しかし、構造として緊張関係があることは否定できない。

製薬会社は臨床試験を資金面で支え、その結果が有名誌に載れば、学術的権威と市場価値が同時に生まれる。医学誌は、その論文によって引用、注目、別刷り収入、ブランド価値を得る。研究者は掲載実績を得る。大学や病院は業績を得る。規制当局、医師、メディア、投資家もそれを見る。

つまり、一つの論文は単なる知識ではない。医療、産業、政策、市場を動かす資産でもある。

近年は、査読者や研究者と企業との関係も問題になる。査読は、学術出版の信頼性を支える重要な仕組みである。しかし査読者自身が、製薬会社や医療機器企業から研究費、講演料、コンサル料などを受け取っている場合、その利益相反をどう扱うのかは簡単ではない。

利益相反があるから直ちに不正だ、という話ではない。臨床医学の最前線にいる専門家ほど、企業と共同研究を行う機会も多い。問題は、その関係がどれだけ透明で、読者が判断できる形で示されているかである。

コロナ禍では、「科学を信じろ」という言葉が何度も使われた。

だが、科学とは単一の声ではない。論文があり、査読があり、編集判断があり、資金提供があり、利益相反があり、メディア報道があり、政治的利用がある。科学は重要である。だからこそ、その流通過程を神聖視してはならない。

国際医学誌は、感染対策を正当化する印籠にもなった。一方で、情報統制や研究の問題点を指摘する場にもなった。政府や専門家に都合よく使われることもあれば、逆に権力や産業を批判する場にもなる。

この両面性を見なければならない。

「Lancetに載った」「Cochraneが示した」「BMJが報じた」「NEJMが批判した」。これらはすべて、議論の出発点であって、終着点ではない。

問うべきは、その内容が何を示し、何を示していないのか。誰が資金を出し、誰が編集し、誰がどう利用しているのか。読者にどのような判断材料が示されているのか。

国際医学誌は、国内では黙殺される問題を世界に問うための重要な場である。しかし、その場もまた、制度と市場と政治の中にある。

だからこそ、国際医学誌を使う側にも、読む側にも、成熟が求められる。

権威は便利である。しかし便利な権威ほど、使い方を誤れば社会を大きく誤らせる。

コロナ禍の失敗から学ぶべきなのは、まさにそこではないか。

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