東野圭吾『永遠の記憶』(文藝春秋)を読み終えた。ガリレオシリーズの最新長編であり、結果的に東野の遺作となった作品である。
湯川のバディでもある警視庁女性刑事の内海薫が刺される。犯人とされるのは70歳ほどの老人だが、彼は取り調べに対して黙秘を続ける。一方、内海に恨みを持つ若い女性が捜査線上に浮かび上がる。さらに湯川と草薙は、老人が持っていた「あるもの」を手掛かりに、別の謎を追い始める。ここから先は、できるだけ何も書かないほうがいい。公式の紹介文だけでも十分に興味を引く仕掛けになっている。
「記憶」は誰のものなのか
この作品で印象に残るのは、タイトルにもなっている「記憶」である。
人間は過去を覚えている。しかし、覚えていることが、そのまま事実とは限らない。時間がたてば、人は自分に都合のいいように過去を組み替えてしまうこともある。
だから「忘れる」ということは、単純に記憶が消えることではない。むしろ、忘れたはずのものが、ある瞬間に現在へ戻ってくることがある。
この作品は、そうした人間の記憶の不確かさを、ミステリーの仕掛けとして巧みに利用している。そして最後まで読んでみると、「犯人は誰なのか」という問いだけでは、この物語を説明できないことに気づく。
湯川は最後まで湯川だった
ガリレオシリーズの魅力は、何といっても湯川学という人物にある。
湯川は感情で事件を判断しない。不可解な現象があれば、まず「なぜそうなったのか」と考える。普通なら見過ごしてしまう小さな違和感にもこだわる。
しかし、この作品では、その冷静さだけでは割り切れない人間の感情が前面に出てくる。
人は合理的には行動しない。怒り、後悔、愛情、恨み、罪悪感。そうしたものが複雑に絡み合って、人間はときに自分でも理解できない行動を取る。
そこに湯川の論理がぶつかる。この構図はシリーズの初期から変わらないが、本作では特に「人間を理解するとはどういうことなのか」という問題が強く感じられる。
遺作だからこそ残るもの
『永遠の記憶』というタイトルは、東野の最後の作品になったことを考えると、あまりにも意味深に見える。
だが、東野が最後に何か特別なメッセージを残そうとして書いた、と考える必要はないと思う。むしろ重要なのは、読者がこの作品を読んだあとに何を記憶するかである。
事件の細部を忘れてしまっても、登場人物が抱えていた感情は残るかもしれない。あるいは、湯川がたどり着いた答えだけが記憶に残るかもしれない。
優れたミステリーは、謎を解いた瞬間に終わる。しかし、本当に印象に残る作品は、読み終わったあとにも何かを残す。
『永遠の記憶』は、まさにそのタイプの小説だ。
東野圭吾はもう新しいガリレオを書くことができない。そう考えると寂しい。しかし、最後のページを閉じたあとに残るのは、作家の死という現実だけではない。
湯川学と草薙俊平、そしてこの事件に関わった人々の記憶は、読者の中に残り続ける。
それこそが、小説が持つ最も不思議な力なのだと思う。
編集部より:この記事は向井鈴氏主宰「昭和人文主義研究会」2026年8月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は昭和人文主義研究会noteをご覧ください。








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