佐藤二朗氏と橋本愛氏をめぐるフジテレビのドラマ騒動については、すでにアゴラ編集部が経緯とSNS上の批判を整理している。また茶請け氏も、「フジは役者を守らない」と題して、制作側の情報共有や役者を守らない姿勢を厳しく論じている。


私も、その問題意識に大きな異論はない。
ただ、本稿で論じたいのは、佐藤氏と橋本氏のどちらが悪いかではない。外部の人間が、撮影現場の空気、当事者の感情、言葉のニュアンス、事前説明の内容を断定することはできない。そこに踏み込めば、芸能ゴシップに加担するだけである。
問いたいのは別のことだ。
月9は、まだフジテレビの看板なのか。

月9終了説は、なぜ出るのか
日刊ゲンダイは、橋本環奈氏主演の月9『ヤンドク!』について、初回は8%台だったものの、第2話以降は6%台、第5話以降は5%台が続き、第8話も5.0%だったと報じた。そのうえで、平均5%台が続くなら、一時収まりつつあった「月9終了説」が現実味を帯びると指摘している。さらに同記事は、月9はもはやブランドではなく「曜日と時間を指すだけの記号」だという趣旨まで書いている。

厳しい表現だが、往年の月9を知る世代には刺さる。
かつて月曜夜9時は、単なる放送枠ではなかった。『東京ラブストーリー』で、カンチとリカの恋に日本中が胸をざわつかせた。『101回目のプロポーズ』では、不器用な男の叫びが時代の台詞になった。『あすなろ白書』は若者の不安と友情を描き、『ロングバケーション』は「月曜の夜は街からOLが消える」とまで言われた。『ラブ ジェネレーション』『やまとなでしこ』『HERO』『ガリレオ』も、ドラマを超えて時代の空気を作った。
月9は、スターを作る装置だった。
俳優にとっては「出たい枠」であり、視聴者にとっては「見るべき枠」だった。フジテレビが俳優をスターにし、スターが月9をさらに強くする。その循環があった。
しかし令和の月9に問われているのは、スターを作る力だけではない。
スターを預かる力である。
スターは「現場の空気」だけでは預かれない
今回の問題で、フジテレビは男性俳優に厳重注意を行い、再発防止を求めたことは事実だと認めた。一方で、問題視したのは撮影中に女性俳優の顔に触れた点ではなく、女性俳優が「演技上の制約」を有することになった経緯を認識しながら発した「言葉等」だった、と説明している。

この説明が正しいなら、なおさら制作側の責任が問われる。
演技上の制約がある。夫婦役という設定がある。身体接触やアドリブが起こり得る。ならば制作側がすべきことは、俳優同士の勘や善意に任せることではない。事前にルールを作り、共有範囲を整理し、誰が現場で調整するのかを決めることだ。
個人の過去やトラウマを無制限に共有せよという話ではない。プライバシーは守られるべきである。しかし、プライバシー保護と安全な制作環境の設計は両立する。
たとえば、顔や顎への接触を避ける。肩と腕以外に触れる場合は事前確認する。台本外の身体接触は演出部を通す。当事者同士だけで処理せず、制作側が同席する。こうしたルールは、個人情報の詳細を共有しなくても作れる。
必要なのは、過去の事情の暴露ではない。
個人の事情を、現場の手順に翻訳することである。
インティマシー・コーディネーターは「制限」ではない
近年、映像・舞台の現場では、インティマシー・コーディネーターという職能が注目されている。これは、演技における身体的接触や親密な関係性を安全かつ明確に整理し、演出と俳優の橋渡しをする専門職と説明されている。日本でも、2020年にNetflix映画『彼女』で初めて導入されたと紹介されている。

この話をすると、「何でも専門家を入れればよいのか」と反発する人もいるだろう。だが本質は、専門職の有無そのものではない。
問題は、フジテレビが、出演者の身体的境界や演技上の制約を現場ルールに翻訳する制作インフラを持っていたのか、である。
インティマシー・コーディネーターの役割は、俳優の同意を確認し、監督の演出意図と出演者の許容範囲を調整することにある。沖縄アーツカウンシルの講座報告でも、事前確認によって俳優が演技に集中でき、監督も演出プランを立てやすくなることが説明されている。

つまり、これは表現を縛る制度ではない。
表現を成立させるための制度である。
平成の現場は、「空気」で回ったのかもしれない。ベテラン俳優の力量、監督の勘、スタッフの阿吽の呼吸、事務所間の暗黙知。だが、令和の制作現場をそれだけで回すのは危うい。
スターは、空気だけでは預かれない。
フジテレビは何を恐れたのか
報道によれば、佐藤氏は映画『踊る大捜査線 N.E.W. メトロポリスを駆け抜けろ!』の関連ドラマから降板した。一方で、映画本編については、現時点で公開日や出演等の変更予定はないと関係者が答えている。

ここが不可解である。
本当に出演継続が困難な重大事案だと判断したなら、映画本編はどうするのか。逆に映画本編は維持するのに、関連ドラマだけ切るなら、それは作品倫理というより、炎上回避、スポンサー対策、世論対策に見えてしまう。
フジテレビは何を恐れたのか。
SNS炎上か。スポンサーか。ジェンダーをめぐる批判か。事務所間の関係か。あるいは、自社の人権方針を掲げた以上、佐藤氏を使い続ければ整合性を問われると判断したのか。
断定はしない。だが、理由を十分に説明しないまま、自ら看板に据えた俳優を切るように見える対応を取ったなら、それは危機管理ではない。危機から逃げただけである。
しかも、この処理は佐藤氏だけを傷つけているわけではない。橋本氏も守れていない。
フジテレビの説明は、「演技上の制約」や「言葉等」という表現にとどまる。詳細を伏せる必要があることは理解できる。しかし、説明が曖昧なまま俳優個人の名前だけが前面に出れば、SNSでは当然、佐藤氏にも橋本氏にも憶測が向かう。
本来、出演者を守るべき制作主体が、出演者双方を矢面に立たせている。
これこそが最大の失策である。
人権方針は、誰かを切る道具ではない
フジ・メディア・ホールディングスは、グループ人権方針で、コンテンツ制作をはじめとする事業に関わるステークホルダーの人権を尊重し、侵害しないよう努めるとしている。また、人権への負の影響を特定、防止、軽減するため、人権デューディリジェンスを継続的に実施すると明記している。
言葉としては立派である。
だが、人権とは声明文の中にある理念ではない。現場で人を傷つけないための実務である。人権方針は、問題が起きた後に誰かを切るための道具ではない。問題が起きる前に、出演者を守る手順を作るためのものではないか。
もしフジテレビが本気で月9を復活させたいなら、脚本や宣伝やキャスティング以前に、俳優と事務所から「この局なら預けられる」と思われる必要がある。
トラブルが起きたとき、制作側が現場設計の責任を説明せず、出演者個人を前面に出す。なぜ切ったのかも十分に説明しない。これでは、俳優も事務所も警戒するだろう。
フジテレビの現場に、大物俳優を預けて大丈夫なのか。
そう思われた時点で、月9復活は遠のく。
月9復活は夢のまた夢
かつての月9は、俳優をスターにした。
今のフジテレビに必要なのは、スターを作る前に、スターを預かる資格を取り戻すことだ。
出演者を守れるのか。事務所が安心して俳優を預けられるのか。身体接触、心理的安全性、アドリブ、事前同意、危機時の説明責任を、現場の空気や個人の善意に任せず、制作インフラとして整備できているのか。
月9終了説は、単に視聴率が低いから出ているのではない。
月9が、俳優にとって憧れの場ではなくなったからである。視聴者にとって見るべき場ではなくなったからである。そして何より、制作主体であるフジテレビが、出演者を安心して預けられる場であることを示せなくなっているからである。
平成のフジテレビは、時代の空気を作った。
令和のフジテレビに必要なのは、空気を読むことではない。現場を設計することだ。出演者を個人戦に放り込まず、作品を成立させ、人を守る仕組みを作ることだ。
それができないなら、月9復活など夢のまた夢である。
月9は、もうブランドではない。
フジテレビが「スターを預かる力」を取り戻せるかどうか。そこに、平成の覇者の再生可能性がかかっている。
【出典リスト】
- アゴラ編集部「フジテレビ『男性俳優を厳重注意』に制作側の責任を問う声が殺到」
- 茶請け「フジは役者を守らない」
- 日刊ゲンダイ「“フジ月9終了説”払拭へ北村匠海に重圧…」
- 日刊スポーツ「佐藤二朗『踊る大捜査線』関連ドラマ降板報道」
- フジ・メディア・ホールディングス「グループ人権方針」
- インティマシー・コーディネーター関連資料
- 沖縄アーツカウンシル「インティマシー・コーディネーター講座報告」







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