日本では今も犬猫が殺処分されている。
行政が犬猫を殺し、遺体を処分する制度は残したまま、「犬猫を食べること」だけを法律で禁止しようという。これは本当に命を守る政策なのか。
殺すことはやむを得ない。しかし、食べることは残酷で許されない。その線引きは、動物の生命を尊重しているのではなく、犬猫を食べる光景を見たくないという人間の感情を守っているだけではないか。

殺処分を残したまま、食べることだけ禁じる
日本維新の会が犬猫食禁止法案の制定を目指している。私は犬や猫を食べたいとは思わない。強い抵抗感もある。しかし、犬猫食を法律で禁止するという議論を聞いて以来、どうしても拭えない疑問がある。

日本では、犬猫を殺すこと自体は禁止されていない。環境省の最新公表統計では、2023年度に全国で殺処分された犬は2,118頭、猫は6,899頭、合計9,017頭だった。数十万頭が殺処分されていた時代から大幅に減少したとはいえ、制度としての殺処分は今も続いている。
行政施設で犬猫を殺し、その遺体を処分することは認める。その一方で、犬猫を食べることだけは禁止するという。これは本当に犬猫の命を守る法律なのだろうか。
動物愛護法も「殺すこと」を絶対には禁じていない
動物愛護管理法は、犬猫を含む愛護動物を「みだりに」殺したり傷つけたりすることを禁じている。違反すれば、5年以下の拘禁刑または500万円以下の罰金となる。
重要なのは、「殺してはならない」ではなく、「みだりに殺してはならない」と書かれていることだ。疾病、攻撃性、譲渡困難、収容能力など、一定の事情と手続きの下では、犬猫を殺すこと自体は制度上排除されていない。殺処分ゼロは政策目標になっても、犬猫の生命を絶対不可侵とする法体系にはなっていない。
それなのに、食べる行為だけを特別に禁止する。行政が殺して焼却するのは許される。人間が食用として利用するのは許されない。犬猫の側から見れば、どちらも人間の都合で命を奪われることに変わりはない。違うのは、殺された後の扱いである。
守られているのは命ではなく、人間の気分ではないか
犬猫食禁止を求める人は、犬猫は伴侶動物であり、家族だから食べてはならないと言う。だが、日本で殺処分される犬猫もまた、同じ犬猫である。
人間の家族として引き取られれば保護される。引き取り手がなく行政施設に残れば、殺処分の対象になり得る。それでも食べることだけは許されない。
この構図から見えてくるのは、動物の命の尊重ではない。「犬猫を食べる人間を見たくない」「犬猫が食材として扱われる社会だと思われたくない」「自分が家族だと思う動物を、他人が食べるのは不快だ」という人間側の感情である。
犬猫を生かすことよりも、犬猫が食卓に上る場面を社会から消すことが優先されている。これは生命倫理というより、残酷さの不可視化ではないか。殺処分施設の中で殺し、遺体を焼却すれば、一般の市民はその現実を見なくて済む。犬猫食を禁止すれば、「日本は犬猫を食べない優しい国」という自己像も守られる。だが、見えなくなったからといって、命が救われたわけではない。
外来種は「殺すなら無駄にするな」
この矛盾は、外来種駆除と比べると分かりやすい。環境省の外来種防除制度は、捕獲個体をその場で殺処分することや、防除の手続きに基づいて生体を運搬することを想定している。生態系を守るため、動物を人間の判断で排除する制度である。
ブラックバスやブルーギル、千葉県で増加するキョンなどでは、駆除個体を肉や革として活用し、「奪った命を無駄にしない」という発想が語られる。食べられるなら食べる。皮や角を使えるなら使う。人間の都合で命を奪う以上、可能な限り利用する。これは日本人にも理解しやすい感覚だ。
ところが犬猫になると、論理が逆転する。殺すことはやむを得ない。だが、食べて利用することは絶対に許さない。ブラックバスやキョンなら、食べることが「命を無駄にしない行為」になる。犬猫なら、食べることが「命を冒瀆する行為」になる。
この違いは、動物の命そのものから生じているのではない。人間がその動物を「害獣」「食材」「家族」のどのカテゴリーに入れたかで決まっている。
かつての食育は残酷さから逃げなかった
日本の学校教育には、動物を育て、最後に食べることを考えさせる実践があった。映画『ブタがいた教室』のモデルとなった授業では、小学生が豚を長期間育て、最後に下級生へ引き継ぐか、食肉センターへ送るかを議論した。農業教育では、鶏や豚を育て、食肉になるまでの過程を学ぶ実践も行われてきた。
こうした授業には、子どもへの心理的負担や参加への同意など、検討すべき問題もある。それでも、一つの現実からは逃げていなかった。人間は、ほかの生き物を殺して生きている。
名前を付け、毎日世話をし、愛情を持った動物であっても、「家族」と「食材」の境界は絶対ではない。豚はペットにもなり、家畜にもなる。ミニ豚を家族として飼う人がいる一方で、同じ豚という種を日本社会は日常的に食べている。鶏、ウサギ、ヤギ、馬も同じである。
かつての食育は、その不都合な現実を考えさせた。現在の犬猫食禁止論は逆である。殺す現実は残しながら、食べる行為だけを社会から隠そうとする。
「いただきます」は何を意味していたのか
日本人は、食事の前に「いただきます」と言う。語源や宗教的意味を過度に美化する必要はないが、現代日本では、食材となった生命への感謝を表す言葉として説明されることが多い。
その感覚に従えば、殺した動物を食べることより、殺したまま廃棄することの方が、命を粗末にしているとも考えられる。
ただし、行政施設で殺処分された犬猫を、そのまま食用に回せという話ではない。由来不明の個体には、感染症、投薬歴、疾病、薬剤残留など食品衛生上の問題がある。食用として飼育されていない動物を流通させるには、検査、処理、表示、トレーサビリティーの制度が必要になる。現実の殺処分犬猫を食べることが適切かどうかは、別の問題である。
ここで問いたいのは、もっと単純な論理だ。なぜ殺すことは許され、食べることだけが道徳的に禁じられるのか。食品衛生上の危険があるから禁止するなら分かる。盗難ペットの流通を防ぐためなら分かる。不適切な屠殺や虐待を防ぐためなら分かる。
しかし、「犬猫を食べるのはかわいそうだから」という理由だけでは、殺処分との整合性が取れない。
食べることを禁じる前に、殺すことを減らせ
犬猫の命を本当に守りたいのなら、優先順位は明らかである。繁殖業者やペットショップへの監督を強化する。安易な購入と飼育放棄を減らす。マイクロチップと所有者情報を確実に管理する。譲渡や自治体間の連携を進める。多頭飼育崩壊を早期に把握する。殺処分を減らす施設、人員、予算を確保する。
これらは地味で、費用も手間もかかる。一方、「犬猫食禁止」は分かりやすい。大きな予算を使わず、政治家は動物に優しい姿勢を示せる。多くの有権者も反対しにくい。
だが、それで救われる犬猫が何頭いるのか。殺処分を残したまま、政府も問題の発生を把握していない犬猫食だけを禁止するなら、それは命を救う政策ではない。政治家と多数派が「よいことをした」という満足を得るための象徴立法である。
命を守るのか、見たくないものを消すのか
私は犬猫食を勧めているのではない。自分が食べるつもりもない。それでも、殺処分を認めながら食べることだけを禁止する法律には賛成できない。
命を守るというなら、まず殺す数を減らすべきだ。殺すことを制度として残すなら、その一方で食用だけを「残酷」と断罪する論理を説明しなければならない。
犬猫を殺して焼却する社会と、犬猫を食べる社会。どちらに嫌悪感を抱くかは、人によって違うだろう。しかし法律が問うべきなのは、多数派がどちらを気持ち悪いと感じるかではない。
どのような実害があるのか。誰の権利が侵害されるのか。既存法で対応できないのか。その規制で何頭の命が救われるのか。
そこを問わずに食べる行為だけを禁じるなら、守られているのは犬猫ではない。犬猫を殺す現実を見たくない、私たち人間の気分である。
【出典リスト】
- 環境省「犬・猫の引取り及び負傷動物等の収容並びに処分の状況」
- 環境省「虐待や遺棄の禁止」
- 環境省「動物愛護管理法の概要」
- 環境省「防除に関するQ&A」
- 環境省 中央環境審議会動物愛護部会議事録(食習慣・外来生物駆除・安楽殺処分への言及)







コメント