オーストリアでナチス・ドイツの歴史問題に絡んだ2件の事例が今年に入り、それぞれ大きな節目を迎えた。1件目は、ウィーンのリングシュトラーセにあるウィーン元市長カール・ルエーガー(1844~1910年)のブロンズ像の設置問題だ。同像は今年1月末、クレーンで台座ごと撤去されたが、5月26日、再び設置された。2件目は7月22日、アドルフ・ヒトラーの生家の改修工事が終わり、警察署として正式に開所式が挙行されたことだ。

「ヒトラーの生家」(改修前)とその前に設置されたファシズムに反対する石碑。ブラウナウ・アム・インの公式サイト、石碑には「平和、自由そして民主主義のために ファシズムを繰り返すな 何百万の犠牲者が我々に気付かせる」と刻まれている。
2件ともこのコラム欄でも既に紹介済みだが、今年に入り一応決着を迎えた。ただし、歴史学者やユダヤ人団体からは「問題の解決ではなく、問題の先送りに過ぎない」といった声が依然強い。ここではオーストリア国民が過去の負の歴史的事例にどのように対応してきたか、2件の実例を通じて振り返った。
音楽の都ウィーン市の中心地に反ユダヤ主義を標榜してきたウイーン市長ルエーガ―の像が設置されてきた。ルエーガー元市長は(在任1897~1910年)は、近代ウィーンの水利システムや公共交通網を築いた功労者であり、キリスト教社会党(CS)の共同創設者だ。彼は市長時代、ウィーンが近代都市へと発展する上で極めて大きな足跡を残した。しかし同時に、ルエーガーは公然たる反ユダヤ主義者であり、政治的反ユダヤ主義の先駆者の一人であった。彼は反ユダヤ感情を巧みに利用して市民の支持を集めた。アドルフ・ヒトラーは自身の著書「我が闘争」の中で、ルエーガ―を「模範」と呼ぶなど、若き日のヒトラーに多大の影響を与えた人物としても知られていた。

アドルフ・ヒトラーの1938年の肖像写真、Wikipediaより
そのルエーガ―市長の記念像が1926年、シュトゥーベントーア門近くに建てられた。戦後、同像の設置に対して長年、議論の対象となってきた。批判者たちは、デザイン変更、あるいは撤去を求めてきた。ペンキや落書きによる破壊行為も繰り返し行われてきた。
2021年5月、文化担当市議会議員のヴェロニカ・カウプ=ハスラー氏(社会民主党)は、様々な意見の調整のため、約40名の参加者を集めた円卓会議を開催した。そして2022年秋にルエーガ―記念像の恒久的な文脈化を目的としたコンペティションが開催され、13名のアーティストが参加した。そしてウィーン応用美術大学のエヴァ=マリア・シュタドラー氏が委員長を務めた審査委員会は、最終的にクレメンス・ヴィリダル氏の作品「傾斜(カール・リューガー 3.5°)」を選出した。
伝統的な通常の銅像は、偉人を垂直に見上げることでその「偉大さ」を表現し、権威を象徴する仕組みになっている。像をあえて傾けることで、その威厳や不動の美を意図的に崩す。公共空間にこの違和感を配置することで、「なぜ傾いているのか?」という思考を誘発させる。また、政治的意義としては、ポピュリズム・反ユダヤ主義への批判と妥協 だ。像を傾けることは、ルエーガーの「政治的な歪み」を象徴し、ウィーン市が過去の差別主義と決定的な決別を示す象徴的なサインとなる、というわけだ。
この3.5度の傾斜による再設置に対しては、「過去の暗部と真摯に向き合うための優れた芸術的解決策」と評価する声がある一方、ウィーンのユダヤ人学生会(JOH)や一部の専門家からは「問題を根本から解決しない、中途半端で臆病な解決策」との強い批判もあり、現在も激しい議論が続いている。
一方、オーストリア北部ブラウナウで7月22日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの生家の改修工事が完了し、警察署に生まれ変わった。ヒトラーの生家を警察署に改修することで現代の極右過激派による「聖地」巡礼を阻止する狙いがある。
オーバーエスターライヒ州西北部のブラウナウ・アム・インにある3階建ての建物の一室にヒトラーは1889年4月20日に生まれ、3歳までそこに住んでいた。オーストリアは2019年11月、「ヒトラーの生家」を警察の建物として使用するために改修することを決めた。
その前までは、「ヒトラーの生家」は障害者施設とその作業場として使用されてきた。同施設が2011年に退去して以来、同建物をどのように利用するかが大きな問題となった。そして「ヒトラーの生家」を家主から強制収用できる法案が審査された時も国民の間で激しい議論が飛び出し、最終決着がつくまで数年が経過した。
当方は1990年代初め、ブラウナウを初めて訪問した。駅に降りて近くのタバコ屋で「ヒトラーの生家」の場所を聞いたが、主人は「知らない」と言う。道行く人に聞いても「知らない」という返事しか戻ってこなかった。「ヒトラーの生家」はブラウナウ・アム・イン駅から数分歩いたところあったが、ブラウナウの人々は外から来た人、特に外国人に聞かれると、何故か教えたくないのだ、ということを後で知った。オーストリア国民の中には、「ヒトラーの生家」を「悪魔のハウス」と呼ぶ人もいる。
オーストリアは戦後、ヒトラーと関連する歴史的事例には平静に対応できなかった。ちなみに、戦後オーストリアは、「モスクワ宣言」を拠り所としてヒトラーの戦争犯罪の被害国と主張してきた。1943年の「モスクワ宣言」には、「ナチス・ドイツ軍の蛮行は戦争犯罪であり、その責任はドイツ軍の指導者にある」と明記されていた。オーストリアがヒトラーの戦争犯罪の共犯者だったことを正式に認めたのはフラニツキー政権が誕生してからだ。同首相(任期1986年6月~96年3月)がイスラエルを訪問し、「ナチス・ドイツ軍の戦争犯罪はオーストリアにも責任があった」と初めて正式に認めた。同国がそこまで到達するのに半世紀余りの歳月を要した。
ドイツでは歴史問題について、「記憶の文化」という表現が深く根づいている。「記憶の文化(ドイツ語:Erinnerungskultur)」は、1990年代以降のドイツの歴史学や文化科学の議論の中で定着した学術的・政治的な概念だ。実際の政治や社会においては、「ナチス・ドイツによるホロコーストなどの負の歴史から目を背けず、反省とともに記憶し続ける取り組み」の代名詞として使われてきた。「歴史に一線を画して忘れるのではなく、過去の過ちを社会共通の記憶として刻み、民主主義の土台にする」という姿勢そのものが「記憶の文化」と呼ばれている。
上記の2件の事例への対応は、オーストリア国民が過去と向き合い、葛藤を重ねながら築いてきた「記憶の文化」の現れともいえる。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年7月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







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