
コロナ禍で日本社会に広がったのは、新型コロナウイルスだけではなかった。もう一つ広がったものがある。マスク、黙食、消毒、アクリル板、面会制限に象徴される「感染対策というウイルス」である。それは人の体ではなく、不安、同調圧力、責任回避、そして「念のため」に寄生して増殖した。
マスク、手指消毒、検温、黙食、アクリル板、面会制限。これらは当初、感染リスクを下げるための手段だった。ところが日本では、いつの間にか手段が目的化した。感染対策をしていること自体が、「善良な人」「責任ある組織」「配慮ある施設」の証明になっていった。
この現象は、まるで感染症のようだった。
誰かが始める。周囲がまねる。学校が採用する。病院が厳格化する。会社がルール化する。店頭に掲示される。テレビが繰り返し伝える。専門家が「念のため」と言う。そして、やめる人間が白い目で見られる。
感染対策は、医学的介入であると同時に、社会規範として人から人へ伝播したのである。
指数関数的に増えた感染対策
しかも、それは単に広がっただけではない。指数関数的に増えた。
指数関数的というと難しく聞こえるが、要するに「足し算ではなく掛け算で増える」ということだ。最初はマスクだった。次に手指消毒が加わる。検温が加わる。アクリル板が置かれる。黙食が始まる。イベントは中止され、学校行事は縮小され、病院では面会が制限される。高齢者施設では家族との接触まで断たれる。葬儀や火葬後の収骨まで制限された。
感染対策ウイルスの恐ろしさは、個々の感染対策ウイルスが互いを正当化しながら増殖する点にある。
マスクが定着すれば、消毒も当然になる。消毒が当然になれば、検温も入る。検温が常態化すれば、黙食やアクリル板も受け入れられる。病院では、さらに面会制限が「念のため」として制度化される。
一つの感染対策ウイルスが、次の感染対策ウイルスにとっての宿主環境を整える。だから感染対策は足し算ではなく掛け算で増えた。これが、日本社会を覆った感染対策ウイルスの増殖過程だった。
感染対策にもRtがあった
感染症にはR0やRtという言葉がある。
R0とは、ざっくり言えば「もともとの広がりやすさ」である。Rtとは、「その時点で実際にどれくらい広がっているか」である。厳密な疫学の概念を、そのまま社会行動に当てはめることはできない。しかし比喩として考えるなら、感染対策にもR0やRtがあったのではないか。
一人がマスクをする。周囲の二人、三人がマスクをする。職場全体がマスクをする。学校全体がマスクをする。病院では、マスクだけでなく面会制限にまで発展する。こうして感染対策は行動として増殖する。
日本社会では、この感染対策ウイルスのR0、つまり「もともとの広がりやすさ」が高かったのではないか。
他人の目を気にする。空気を読む。周囲と違う行動を避ける。組織の決定に従う。責任を問われたくない管理者が「念のため」を採用する。こうした社会的土壌は、感染対策という行動ウイルスにとって極めて好適な宿主環境だった。
さらに、そこに専門家とマスコミが加わると、Rt、つまり「その時点の増え方」は一気に跳ね上がる。
毎日の感染者数速報。医療逼迫報道。専門家コメント。街頭インタビュー。学校や病院の掲示。自治体の呼びかけ。SNS上の監視と批判。
それらは単なる情報提供ではなかった。社会の不安を増幅し、感染対策を続ける空気を強める装置として働いた。
「念のため」は責任回避の最強ワード
必要な感染対策はある。感染症流行時に、医療機関や高齢者施設で一定の配慮が求められることは当然だ。本稿は、すべての感染対策を無意味だったと断じるものではない。
問題は、対策の必要性、効果、副作用、期限、解除条件が十分に検証されないまま、社会規範として自己増殖したことである。
特に日本で強かったのは、「念のため」である。
念のためマスク。
念のため黙食。
念のためアクリル板。
念のため面会制限。
念のためイベント中止。
念のため子どもを遠ざける。
念のため家族を病室に入れない。
「念のため」は便利な言葉である。やめて何か起きれば責任を問われる。続けていれば、とりあえず責任は問われない。だから組織はやめない。学校も病院も企業も自治体も、解除する責任より継続する安全を選ぶ。
こうして感染対策は、効果の問題から責任回避の問題に変わっていった。
科学から道徳へ
コロナの感染リスクが下がっても、感染対策は残った。マスク着用が個人判断とされても、周囲の目は残った。法的な位置づけが変わっても、病院や施設の面会制限は残った。飲食店のアクリル板は、しばらく亡霊のように残った。
ここで重要なのは、感染症そのものと感染対策を分けて考えることである。
ウイルスの性質を分析するのは医学や疫学の仕事である。しかし、感染対策がなぜ広がり、なぜ過剰化し、なぜ解除されにくくなったのかを考えるのは、社会の問題である。
なぜ人々は従ったのか。なぜ異論は言いにくかったのか。
なぜ組織はやめられなかったのか。
なぜ子ども、妊婦、入院患者、施設高齢者、飲食業、若者に負担が偏ったのか。
なぜ効果検証よりも「やっている感」が優先されたのか。
これらは医学の問いだけではない。社会の問いである。
とりわけ象徴的なのが病院の面会制限である。マスクは個人に感染した感染対策ウイルスだった。だが、病院に感染した感染対策ウイルスは、面会制限という形を取った。
病院が「感染対策」を理由に家族の面会を制限すれば、患者や家族は従わざるを得ない。そこには医学的判断だけでなく、病院組織の責任回避、現場負担、患者の権利意識の弱さ、家族の声の届きにくさが重なっている。
しかも厄介なのは、感染対策に疑問を持つこと自体が反社会的に見られたことである。マスクに疑問を言えば「自分勝手」。面会制限に疑問を言えば「患者を危険にさらすのか」。黙食に疑問を言えば「子どもを守る気がないのか」。
こうして感染対策は、科学ではなく道徳になった。
科学なら、効果を検証する。副作用を測る。対象を限定する。期限を決める。状況が変わればやめる。
しかし道徳になると、そうはいかない。やっていること自体が善になる。疑問を持つ者は悪になる。対策の効果より、対策に従う姿勢が評価される。
これが日本社会で起きた最大の問題だったのではないか。
次に備えるべきは感染症だけではない
コロナのRtは下がった。しかし、感染対策ウイルスのRtはなかなか下がらなかった。
感染症の流行が収まっても、対策だけが残る。人々の不安に寄生し、組織の責任回避に寄生し、メディアの危機報道に寄生し、専門家の「念のため」に寄生する。これこそ、感染対策というウイルスの正体である。
必要な感染対策はある。だが、必要性を検証されない感染対策は、公衆衛生ではなく社会的感染である。
私たちが次に備えるべきなのは、新しい感染症だけではない。新しい感染対策ウイルスにも備えるべきである。
そのために必要なのは、感染対策を疑うことではなく、感染対策を検証することである。誰を守り、誰に負担を押しつけ、いつ終わらせるのか。その問いを持たない対策は、いずれまた自己増殖する。
ウイルスより長く残ったもの。
それは、感染対策というウイルスだった。
【出典】
- 厚生労働省「マスクの着用について」:2023年3月13日以降、マスク着用は個人判断が基本とされたこと。
- 厚生労働省「新型コロナウイルス感染症の5類感染症移行後の対応について」:2023年5月8日に5類感染症へ移行したこと。
- 文部科学省「学校における新型コロナウイルス感染症に関する衛生管理マニュアル」:一定の措置を講じれば「黙食」は必要ないとされたこと。
- 日本のマスク着用と社会規範に関する研究(Wiley):政府の呼びかけと周囲の行動がマスク着用に与えた影響を扱う研究。
- リスクの社会的増幅に関するレビュー(MDPI):リスク認知がメディアや社会制度を通じて増幅されるという枠組み。






コメント