
世界を恐怖のどん底に突き落とした9・11同時多発テロから、気がつけば25年が過ぎた。あの日の映像はいまも世界の記憶に焼き付いているが、私にとって9・11は、単なる歴史的事件ではない。
それは、30年以上続けたイスラム過激派取材の延長線上に突然現れた「必然」であり、取材の現場で聞いた言葉が、現実となって姿を現した瞬間だった。
私はイスラム過激派の内部に踏み込み、最高幹部と直接対話を重ねてきた。
ハマスの源流であるムスリム同胞団の最高指導者、ムスタファ・マシュワールとの長時間対談。
ロンドンで若者を過激化させた金属製義手のイマーム、アブー・ハムザ・アル=マスリとの対峙。彼は爆発物を製造中、過って手を吹き飛ばした本物のテロリストだ。
そして、アフガン北部同盟の英雄マスード将軍を暗殺したチームの主犯とされるエジプト人工作員、ヤッサーへの直接取材。
それぞれ異なる場所にいながら、彼らは同じ思想の地下水脈でつながっていた。
当時、日本人でそこまで深く入り込んだジャーナリストは他にいなかったと自負している。
そのためか、思いもよらぬ事態にも巻き込まれた。
ロンドン警視庁から突然呼び出しを受け、しばらくヒースロー空港に近づくことすらできなかった。
「仲間だと思われたのではないか」と冗談めかして言われたが、当時の欧州の治安当局の緊張感を考えれば、笑い話では済まない。
取材の中でも、特に強烈な印象を残した人物がいる。
盲目のエジプト人聖職者、シェイク・オマル・アブダル・ラーマン。
後に米国で終身刑となり、国際的な重大テロ計画に関与した人物だ。その思想はアルカイダを含む複数の過激派組織に影響を与え、「精神的支柱」と呼ばれた。

筆者提供
私は彼と長時間対談した世界でも数少ないジャーナリストの一人であり、日本人としては唯一だった。
議論の中心は「聖戦とは何か」「米国をいかに打倒するか」という、過激派思想の核心に触れる内容だった。
しかし、意外にもチョコレートの話題になると彼は饒舌になり、ベルギー産カカオの香りについて語り合ったことを今でも覚えている。
人間の多面性とは、時に残酷なほど鮮烈だ。
ニューヨーク世界貿易センターの双子ビルは、日本ではあまり知られていないが、9・11で倒壊する8年前の1993年、地下駐車場に仕掛けられたトラック爆弾で攻撃された。
この爆破事件では6人が死亡し、1000人以上が負傷した。
その後、ラーマン師は国連本部やリンカーン・トンネル、ホランド・トンネルなどニューヨークの複数の施設を標的とした爆破計画に関与したとして有罪判決を受け、終身刑を言い渡された。
私はその捜査に関わったFBI捜査官、さらにFBIから多額の謝礼を受けて盗聴に協力した人物にも取材した。捜査は合法であったが、倫理的に許容できるかどうかは別問題だと痛感した。
獄中での対談の中で、ラーマン師は私にこう語った。
「自分は無実だ。だが息子たちは仲間と組んで再び攻撃する。」
その「仲間」が後にウサマ・ビンラディンであることが判明する。
当時の私は、その言葉の重さを十分に理解していなかった。
ちょうど同じ頃、私はロンドンでウサマの右腕とされる人物と直接長時間対談する機会を得た。
その結果、アフガニスタンでウサマ本人をインタビューできるという約束まで取り付けた。
「カブールまで来ればヘリで迎えに行く」と言われたが、すでに決まっていた中東取材のスケジュールのため、実現できなかった。
今でも悔しさが残る。
そして数年後、2001年9月11日。
世界は歴史の転換点を迎えた。
ラーマン師はイスラム法上の「ファトワ」を出す資格を持つ人物であり、ウサマ・ビンラディンには本来その資格がない。
つまり、ラーマン師が私に語った言葉は、獄中から発せられた「9・11攻撃の予告」だった可能性が高い。
彼は拘束されていても、過激派の精神的支柱であり続けた。
9・11から10年以上が過ぎた2013年、アルジェリアのイナメナス天然ガス施設で、日本企業「日揮」が巻き込まれた大規模人質事件が発生した。
アルカイダ系武装勢力は要求の一つとして、獄中のラーマン師の解放を掲げた。
結果、日本人10名が犠牲となった。
過激派思想の連鎖が、再び日本人の命を奪った瞬間だった。
写真は、映画のスタント操縦士ピートが操るヘリから私が撮影したものだ。「ビルの間をすり抜けようか?」と彼が言ったのは、私が当時、「このビルを攻撃するならどうするか」という議論ばかりしていたからだ。

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その少し前、ニューヨークで大規模なテロ計画に関与した中心人物と、世界でも極めて異例の長時間対談をしたのが私だった。
ラーマン師はその時、「もう一度必ずやる。息子とウサマが組んでいる」と語った。
それは、9・11の予告だった。
9・11発生後、私は米西海岸から現場へ向かった。すでにかなりの時間が経過していたため、グラウンド・ゼロの近くまで入ることは許されなかった。
それでも、遠く離れた地点から見える光景は、十分すぎるほど衝撃的だった。
崩れ落ちた街の中心にはなお粉塵が漂い、空気そのものが「破壊の記憶」を抱え込んでいるように感じられた。
その地域に足を踏み入れた瞬間、胸の奥で何かが強く締め付けられた。
瓦礫の山はすでに片付けられつつあったが、地面には細かな灰が薄く積もり、踏みしめるたびに静かに舞い上がった。
それは、崩れ落ちたビルの残骸であり、失われた命の痕跡であり、世界が一瞬で変わってしまったという事実そのものだった。
それから数カ月が経過した頃、私は飛行機が突っ込み多数の死傷者が出た国防総省──ペンタゴンにも向かった。
日本人として最初に現場入りしたのは、偶然ではなく、長年の取材で築いた「危機の現場へ向かう道筋」が自然と私をそこへ導いたのだと思う。
巨大な建物の外壁はえぐられ、焦げた鉄の匂いがまだ残っていた。世界最強の軍事施設でさえ、脆く傷つき得るという現実が、静かに、しかし鋭く胸に突き刺さった。
何度も何度も、その悲惨さで胸が締め付けられた。
取材者としての冷静さを保とうとしても、人間としての感情が、瓦礫の中から立ち上る沈黙に揺さぶられた。
あの光景は、いまも私の記憶の奥底で静かに燃え続けている。
そして思う。
あの頃、他のイスラム過激派も「飛行機を使った攻撃」を示唆していた。私はその兆候を取材の現場で繰り返し耳にし、FBIや司法省に警告を伝えた。
友人がかなりいるCIAは当時「知っている」と豪語した。だが最近、事件発生の3年前だと言い出した。私の情報の少し後のことだ。
いずれにしても、私の声は米当局に十分に届かなかった。
歴史の分岐点は、時に「見落とされた警告」から生まれる。その事実を思うと、今でも悔しさが込み上げる。







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