9・11の映像から消された「人間の死」-The Falling Man

黒坂岳央です。

毎年9月11日が近づけば、SNSには「#NeverForget911」という言葉とともに、あの日の映像が流れてくる。旅客機がワールドトレードセンターに突入し、巨大な炎が上がってツインタワーが崩壊するあの動画だ。

そんな9・11で物議を醸す1枚の写真がある。それがAP通信の写真家リチャード・ドリューが撮影した「The Falling Man」である。(検索すると画像が出てくる)。

この1枚の写真は人間が持つ大きな矛盾を突きつけている。

死者が見えない事件

当時、多くの飛行機追突事故映像が連日流される中、このThe Falling Manの写真も世界中の新聞に掲載された。

ニューヨーク・タイムズは映像から確認できた約50人を数え(2001年9月の同紙記事)、USA Todayは目撃証言や法医学的証拠なども加えて少なくとも200人と推計している(2002年9月の同紙特集記事)。あまりにも多くの命が失われた。

「人の死を利用している」「死者の尊厳を奪っている」「遺族のプライバシーを侵害している」といった批判が起き、テレビ局は遺族への配慮などから落下者の映像を流さなくなった。だが依然として突撃シーンは放送され、そのメカニズムや背後で動く犯人たちの思惑なども取り上げられる。「人の死」だけは舞台から消された格好だ。

その理由は理解できる。筆者だって、もしも自分の家族が亡くなる瞬間をテレビで繰り返し流されたら耐えられないだろう。

しかし、ここには奇妙な非対称がある。9.11は「飛行機が巨大な建築物に衝突し、ツインタワーが崩壊した歴史的大事件」という無機質な映像へと変わり、死者の姿は表に出なくなっていったのだ。

だが、テロの本当の恐ろしさはビルが壊れたことではなく、本質的にはその中にいた普通の人々がなくなったことのはずだ。

死を直視して見えてくるもの

飛行機追突シーンだけを見ても分からない、人の死を直視することで分かることがある。ここからは完全に筆者の独断の持論であることをご容赦いただきたい。

当時、北棟(1 WTC)にいた人々の命運を分けたのは「92階」だった。

これより下の階では非常階段から避難して多くの人が助かった。その後、有害なアスベストや重金属、化学物質を含んだ粉じんを吸い込みで命を落とした人もいたが、少なくとも直接的な事故死は免れた。一方で北棟の92階より上の階にいた人は「全滅」。文字通り、誰一人として生き残らなかったのだ。

だが彼らはすぐには死ななかった。火と煙に追われ、窓際まで追い詰められた様子が数多くの映像で残されている。ギリギリ窓の外に身を乗り出し、やがてそこから次々と落下していく。もしかしたら突風に吹かれて誤って落ちた人もいたのかもしれない。

彼らのいたビルは飛行機突入から102分後に崩壊した。彼らはこの102分の間、間違いなく生きていた。だがこの時間で自分たちに救助が来ないことは悟っただろう。瓦礫に阻まれて非常階段も使えない。空気を求めて窓際に身を乗り出しても確実に死が迫っている。ここで究極の選択があったことが見えてくる。

The Falling Manは誰だったのか

The Falling Manの映像が出た時、すぐに人物特定が始まった。具体的な名前を出すことは伏せるが、このビルで働いていた人々が候補に上がった。

その一人として名前が挙がった男性の遺族は、写真の人物が父親であることを強く否定した。jumperとfaller、両者は自ら落ちたか、落下した人かの違いを示す。この言葉の違いは傍観者にはそれほど大きな違いはなくとも、遺族本人にはあまりに大きな意味の違いがあったはずだ。「飛び降りた」という言葉は父親の人格に対する侮辱に近いものだった。

しかし、あの日の状況を考えれば、「飛び降りた」という表現も正確ではない。火の中に残り、煙を吸い続けることから逃れるために窓に出た。それしか選択肢がなくなった人間について、通常の意味で「自ら死を選んだ」とはいえない。そこには自由意思などほとんど残されていない。

Falling Manは、自ら死を選んだ人間の写真ではない。選択肢を奪われ続け、最後に選択を強制された人間の写真である。

だからこの一枚は、飛行機の衝突映像よりもはるかに直接的に9.11の本質を伝えている。そういう意味で筆者個人としては、この写真は隠すのではなくビルの突撃シーンと同列に扱うべき1枚の記録だという認識をしている。

「死の写真は不謹慎」は本当か?

死者の映像を流すことは不謹慎だという意見には妥当性がある。本人や遺族の同意なく、死の瞬間をさらすこと自体が人権侵害である。

ホロコーストやベトナム戦争の写真が今日「歴史的記録」として許容されているのは、被写体も遺族もほぼ生存していない時代になったからに過ぎない。

だが9.11は違う。放送された瞬間、遺族はまだ生きていて、テレビの前でその映像を見ている可能性すらあった。この「時間的距離のなさ」こそが、規制派の最も強い根拠であることは認めるべきだ。

この論理を突き詰めると奇妙な帰結に行き着く。「遺族が生きている間は隠し、死に絶えたら公開してよい」という基準は、真実の重みを遺族の寿命に委ねていることになる。

ではその「生きている間」とは具体的に何年なのか。10年か、30年か、遺族が全員死に絶えるまでか。誰もこの問いに答えられない。答えられないということは、これは論理的な基準ではなく、単に「今クレームを言う人がいるかどうか」という力学で決まっているに過ぎないということだ。

歴史的記録としての価値は、遺族の生死とは本来無関係のはずだ。むしろ「同時代性」があるからこそ、その死が抽象的な数字ではなく実在した苦しみとして伝わる。

時間が経ってから見せる写真は、すでに「歴史」というフィルターを通過済みであり、我々を居心地悪くさせる力を失っている。皮肉なことに、そのフィルターが完成する頃には、当の遺族もこの世にいない。つまり「配慮」という建前は、結局のところ誰も傷つかなくなった後にしか実行されない。

本当に不謹慎だと思っているのは誰なのか?遺族にはその資格はあるだろう。だが無関係の人がそういうなら、「個人の感情」からのクレームに耐えかねて「不謹慎という意見があったので」と蓋をしているだけではないか。

筆者はそうした「うるさいものに蓋」という姿勢の方がよほど不謹慎に思えてしまう。

この構造は9.11に限った話ではない。「死という事実は見せず、破壊という現象だけを見せる」報道姿勢は、日本の災害報道にも一貫して存在する。

日本で災害が起きれば、津波も、炎上する街も、倒壊した建物も映るので、我々は「津波の恐ろしさ」は知っている。だが、その津波が一人一人の人間に何をしたのかについては、映像から徹底的に取り除かれている。

災害は見せて死者は消す。これで死はリアルではなく概念になる。本当に後世を生きる教訓になると言えるのだろうか。

死者への配慮によって死者を消したとき、私たちはいったい何を「Never Forget」と言っているのだろうか。

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Z世代を甘やかすな」(著:黒坂岳央)

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働き方・キャリア・AI時代の生き方を語る著者・解説者
著書4冊/英語系YouTuber登録者5万人。TBS『THE TIME』など各種メディアで、働き方・キャリア戦略・英語学習・AI時代の社会変化を分かりやすく解説。

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