
10月22日のドラフト会議で、日本ハムが山梨学院高校の菰田陽生を1位で単独指名した。最速152キロ、高校通算39本塁打。投打に実績のある高校生を、大谷翔平がプロ生活を始めた球団が指名したことで、SNSでは「NEXT大谷」「大谷2世」という期待が寄せられた。

この呼称の問題は、単に「若者にプレッシャーをかける」という話ではない。より重要なのは、大谷という例外的な成功を基準にすることで、選手の能力や育成の成果を評価する仕組みそのものがゆがむことである。
優れた投手が「二刀流に失敗した選手」になる
仮に、投打の双方に取り組んだ新人が、数年後に投手へ専念し、先発の柱になったとする。球団は有力な戦力を得て、選手も自分の能力を発揮した。通常なら、育成の成功と評価されるはずだ。
しかし、その選手が入団時から「大谷2世」として紹介されていれば、同じ結果に「二刀流断念」という別の意味が付く。
実績は変わらない。変わるのは比較対象である。プロの一軍でどれだけ貢献したかではなく、大谷と同じ道を歩めたかが評価に入り込む。その瞬間、十分な成功が、不完全な成功へと読み替えられる。
これは選手本人の精神的な強さとは別の問題だ。周囲の期待を気にしない選手であっても、報道や世論が使う物差しは変わらない。
投手としての能力を伸ばすために打撃の比重を下げる判断も、打者としての出場機会を増やすために登板を減らす判断も、本来は能力を最大限に生かすための選択である。それを「二刀流を続けられたか」という一つの尺度で測れば、合理的な専門化まで挫折に見えてしまう。
大谷が示したのは、投打を両立する成功も存在するということだった。その成功だけを特別な到達点として扱えば、今度は一方を極める成功が過小評価される。
「大谷2世」は情報を増やさず、期待を増やす
「大谷2世」という表現が便利なのは、少ない言葉で大きな期待を伝えられるからだ。しかし、期待を伝えることと、選手について説明することは同じではない。
最速球速や本塁打数は能力を知る手掛かりになる。ただ、それだけでは、プロの打者に対してどう打ち取るのか、プロの投手を相手にどこまで打てるのかは分からない。投打のどちらに、どのような課題があるのかも見えてこない。
そこで「大谷2世」という名前を添えると、説明されていない部分を、読者が知っている大谷の姿で補えてしまう。実際には未知数である将来が、既知の成功物語のように感じられるのである。
今回確認できる報道にも、SNSの期待を見出しにしたものがある。それ自体はファンの反応を伝える記事だが、反応の紹介と選手の評価は区別して読む必要がある。期待する声が多いことは、育成の見通しを裏付ける材料ではない。
新しい選手を説明するために過去のスターを使う。その比較が入口で終われば有用だろう。しかし、比較だけで記事が成立するなら、本人について何を新しく伝えたのかが問われる。
二刀流を守ることが、選手を生かすこととは限らない
菰田本人は大谷への憧れを語り、二刀流への挑戦にも前向きな姿勢を示している。その希望を出発点にすることは当然である。
ただし、挑戦を認めることと、二刀流の継続自体を育成の成果にすることは違う。
投打を経験することで、初めて分かる適性もあるはずだ。実際に取り組んだ結果、一方へ重点を移すのであれば、その試行には意味があった。最終的に両立しなかったという理由だけで、途中の挑戦まで失敗とするのは評価として粗い。
問うべきなのは、投打を続けたかどうかではなく、本人の意思と競技上の根拠を踏まえて、その時点で最善の選択ができたかである。
報道も同様だ。二刀流を続ければ大谷に近づき、専念すれば遠ざかる、という一本道の物語では、選手の変化を捉えられない。制球が改善した、特定の球種への対応が進んだ、出場できる試合が増えた。そうした具体的な変化を追う方が、育成の実態はよく分かる。
菰田が将来どのような選手になるかは、まだ誰にも分からない。「大谷2世」という言葉は、その分からなさを覆い隠すには便利だが、理解を深めるには足りない。
大谷の成功から引き出すべき教訓は、同じ選手を再び作ることではなく、従来の想定から外れる能力にも道を開くことだろう。例外を認めた結果として生まれた成功を、次の世代の規格にしてしまえば、その教訓は逆転する。
菰田を評価するために必要なのは、大谷との距離ではない。菰田自身の能力が、どこまで生かされているかという視点である。







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