
「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉がある。
ある会社で役員をしていたとき、社長が全社員に向けて発した言葉である。
禅の言葉で、雛が殻の内側からつつくのと、親鳥が外側からつつくのが同時であることを指す。学べと伝えたかったのだろう。社員が自分から学ぼうとするときに会社も手を貸す、その呼吸を合わせたいという思いがあったのかもしれない。社長は必死に考えたようだった。
だが、社員には響いていなかった。白けた一日だった。意味を知らない言葉を聞かされても、多くの人は考える前に聞き流してしまう。
なぜ、偉い人は難しい言葉を使いたがるのだろう。政治家にも多い。理由は人それぞれだろうが、聞く側の顔はあまり浮かんでいないように見える。難しい言葉は、言う側の満足で終わりやすい。
「源深流遠」
みなもと深く、流れは遠い。基本が大事ということらしい。
「力行自立」
自分で自立して歩けということか。個人が自分の力で行動し、生活を自己完結できること。
どちらも立派な言葉だが、聞いた人が明日の仕事に結びつけるには、間に何段もの説明がいる。
一方で、わかりやすい言葉を使う政治家もいる。海部俊樹元首相は、色紙のサインに「希望」とよく書かれていた。なんて深く、なんていい言葉だろうと感動したものだ。誰が読んでも意味がわかり、それでいて読む人ごとに思い浮かべるものが違う。
私自身もそうありたいと思っていた。管掌する部門の数字が芳しくないときには、「難しいときほど、笑顔でいよう」と話した。社員を送り出すときは「いってらっしゃい」。帰ってきたら「おかえり」。社内での挨拶は「こんにちは」「お疲れさま」。
それだけだ。シンプルだが、これを毎日徹底するのは難しい。それでも、効果はある。声をかけられれば返事が返ってくるし、返事をすれば顔が上がる。「おかえり」と言われて嫌な顔をする人はいない。数字の悪い月でも、職場の空気は沈みきらずに済んだ。
皮肉なことに、ずっと心に残っているのは「啐啄同時」のほうだ。響かなかった言葉としてである。社長が伝えたかった中身は間違っていなかったと思う。あの日の白けた空気を思い出すたびに、言葉は相手に届く形で渡さなければ意味がないと思い知らされる。
コンサルティング会社の風土改革。あれほど胡散臭いものはない。立派な理念や標語を掲げて研修を重ねても、現場の挨拶ひとつ変わらないことがある。かつては自分も導入していたが、恥ずかしい限りである。よほど、挨拶運動を1か月実行したほうが風土は変わっていく。
人を動かすのに、難しい言葉などいらないのである。
尾藤克之(コラムニスト、作家)
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