
バス代として支給された手当を、自転車通勤に切り替えた後も受け取る。会社の規程に反していれば、返還などが問題になる。それは分かる。
しかし、最初から通勤方法を選べる制度に変えてはどうか、と言っても「それでは社員が得をする」と反対されるなら、話は違う。守りたいのは会社の利益なのか。それとも、他人に得をさせないことなのか。
10月27日、ゴールドオンラインに、自転車で通勤しながらバス代相当の手当を受け取った従業員について、返還や懲戒解雇の可否を解説する記事が掲載された。

月1万2,000円、10か月で12万円。別の従業員から自転車通勤を知らされた社長が、返還と解雇を考えるという筋書きである。ただし、実際の事件報道ではなく、制度説明のために再構成したモデルケースだ。
本文は見出しより冷静で、定額支給なら自転車通勤だけで不正とはいえず、不正受給があっても直ちに懲戒解雇できるわけではない、と説明している。そこに異論はない。
しかし、社員をどう処分するかの前に、その通勤手当の設計を疑ってはどうか。
規則を守る話と、規則を変える話
実費相当額の支給を条件とする会社に虚偽の申請をしてよいわけではない。支給条件に合わない受給には、返還や懲戒が問題になる。
だが、既存の規則に従うことと、その規則が合理的かどうかは別問題だ。
通勤方法を選べる制度に変えようという提案に、「不正を許すのか」と返しても議論にならない。変更後の規則に従って支給するなら、不正ではないからだ。
会社が必要としているのは、社員が安全に、安定して出勤することである。一定額の運賃を交通事業者へ支払わせること自体が、経営目的ではあるまい。
徒歩や自転車は無料ではない
運賃を払わなければ通勤費はゼロ、という見方も粗い。
徒歩なら靴や衣類が傷む。自転車なら購入費、部品交換、保険、駐輪場、雨具などに費用がかかる。自力で移動しているのであって、何の負担もなく会社へ現れるわけではない。
職場の近くに住むため、住宅費を余計に負担する人もいる。都心の職場なら、通勤時間を短くする代わりに、高い家賃や部屋の狭さを引き受けることもある。
遠距離通勤者の運賃は支援する一方、近くに住むための負担は本人任せ。運賃の補填としては筋が通っていても、働くための負担を支える制度として十分だろうか。
鉄道の遅延や運休に左右されにくい社員がいることは、会社にも便益がある。その価値は、通勤費の帳簿には表れない。
東京都は居住場所の価値を制度にしている
居住場所を組織の対応力と結びつけた実例が、東京都の災害対策職員住宅である。
東京都職員住宅管理規則は、勤務時間外の災害発生時に、初期の情報収集や連絡、応急活動を担う要員のための住宅を定めている。入居者には、住宅の区分に応じた災害対策等の業務を行う義務もある。
住宅の提供と、非常時の役割を組み合わせた制度である。
近くに住む民間社員にも災害出勤を当然視してよい、という話ではない。即応性を期待するなら、役割と対価を明確にすべきだ。近居者を「交通費がかからない人」とだけ扱う必要はないのである。
数百円の精算に、いくら使うのか
徒歩や自転車なら、通勤時間に運動を組み込める。通勤手段も毎日同じとは限らない。晴れた日は自転車、雨の日はバス。猛暑の日や体調の悪い日は公共交通機関を使う。その方が生活の実態に合っている。
では、バスに乗るたびに利用日と運賃を記録し、申請させるのか。上司が承認し、経理が確認する。その管理費用まで計算しているだろうか。
自転車の保険加入や安全な経路の確認には意味がある。しかし、それと毎日の乗車実績を細かく監視することは別だ。
取り戻した金額だけを成果にし、そのために使った時間を数えない。これでは節約したつもりで、会社全体の費用を増やしかねない。
定額の通勤支援へ組み替える
一案は、合理的な経路の定期代相当額を基準に、上限を設けた定額支援へ変えることだ。自転車の維持費にも、雨の日のバス代にも使えるようにする。
住居や通勤距離など、支給額を決める基本条件は確認する。虚偽の住所や架空の経路による過大申請は防ぐ。一方で、今日はバスか自転車かという選択には裁量を持たせる。
近居者には近居手当や住宅支援を組み合わせる。遠距離通勤者にも家庭や住居の事情があるから、遠くに住むことを罰する必要はない。近くに住む選択にも支援の道を開けばよい。
ただし、定額で払えば全額非課税になるわけではない。国税庁は、自転車通勤について距離等に応じた非課税限度額を設け、超過部分は給与として課税するとしている。支給制度と税務上の扱いは分けて設計する必要がある。
定額制が必ず安上がりになるとは限らない。だからこそ、手当の総額と管理の工数、社員の利便性を比較して判断すればよい。
自分が損をしなくても、他人の得が許せない
今回のモデルケースは、架空の住所を申告して通勤距離を水増しした話ではない。会社が把握している自宅から、バスの代わりに自転車で来ていたという話だ。
最初から通勤方法を選べる定額支援なら、会社は予定した額を払い、社員は自転車をこぐ負担を引き受け、差額を手元に残す。それで困るのは誰なのか。
少なくとも、記事を読んでいる第三者の財布は痛まない。
それでも「そんなことを認めたら、あの人だけ得をする」という反発が出るなら、問題は不正ではない。規則を変えてもなお、他人に利益が残ること自体が気に入らないのである。
同じ金額をバス会社に払えば納得するのに、社員の手元に残れば腹が立つ。会社の支出は変わらなくても、社員が得をしない方を選びたくなる。
実にみみっちい話ではないか。
「得をさせない」ために全員が損をする
他人の利益を削るためなら、自分の負担が増えることも受け入れる。ここまで進めば、単なる不公平感ではなく、スパイト、すなわち意地悪の論理である。
定期券の写しを出させる。利用状況を確認する。通勤方法を変えるたびに届け出させる。自分にも手続きが増え、同僚にも確認作業が増える。それでも、誰かの手元に差額が残るよりはましだという。
私は、この「他人に得をさせないためなら、みんなで不便になっても構わない」という発想に、日本社会の息苦しさを見る。
全員が少し楽になる制度より、誰も抜け駆けできない制度を求める。自分の待遇を良くするより、隣の社員の小さな利益を取り上げる方に熱心になる。それを「公平」や「規律」という立派な言葉で包む。
コロナ期のマスク警察や自粛警察にも、同じ問いを向けたい。感染リスクへの懸念と、「自分が我慢しているのだから、お前も我慢しろ」という要求は別物だ。旅行や外食の危険性を論じず、楽しんでいること自体を責めるなら、目的は感染防止から我慢の平等へ変わっている。通勤手当でも、会社の損失より社員の得が気になるなら、同じ転倒が起きている。
私たちが警戒すべきスパイト気質は、露骨な嫌がらせだけに現れるものではない。「不正を許すな」という正義の顔でも現れる。
不正を防ぐために規則を守らせることと、他人に得をさせないために規則を変えたがらないことは違う。
社員が自転車をこいで、少し得をした。それを認める制度に変えれば、確認の手間も減らせるかもしれない。それでも許せないというなら、守りたいのは会社の利益なのか。それとも、「あいつだけ得をするのは許せない」という感情なのか。
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制度や社会の不合理について、筆者のnoteでも発信しています。








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