目覚める中国人たちがもたらす世界の価値観の変化

記事のポイント
  • 中国人の主張を再評価する動き:欧米の民主主義を絶対視せず、中国の政治制度や価値観を是々非々で評価する議論がSNS上で広がり始めている。
  • 民主主義より政治の実効性を重視:欧米の民主主義が分断と機能不全に陥るなか、「ネズミを捕る猫が良い猫」という実用主義的な政治観が説得力を増している。
  • 欧米中心主義からの脱却:民主主義や人権を唯一の物差しとせず、経済的豊かさや社会の安定も含めて政治制度を評価する視点が必要になっている。
  • 中国への理解と権力の抑制は両立すべき:中国側の合理的な主張は受け入れる一方、独裁や権力の暴走を防ぐチェック・アンド・バランスと軍事的な抑止力は維持しなければならない。
  • 日本は東アジアの現実主義的な協調を主導すべき:中国や韓国の理性的な層との対話を深め、対立と協力を両立させながら、欧米型の価値観の対立を超えた新しい平和秩序を築くことが期待される。

前回記事で書いたフランスのアレコレが起きてから、地味に世界中で世論の「地殻変動」的なものが起きてる感じがしてます。

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その例としては、最近、「中国という存在をどう国際社会が受け止めるのか」というのが、新しいグローバルSNSの議題になってきてる面があるなと思っていて・・・

特に、「中国人の言い分」みたいなものを、是々非々にちゃんと評価する流れが立ち上がってきているように感じて、その事自体は今後の世界の平和と安定にとってものすごくポジティブな事であるように感じています。

(もちろん、中国は人数めっちゃ多いんで、ほんとどうしようもない「日本のネット右翼さんをさらにタチ悪い感じに過激化したような」ポストも大量にあるんですけど、一方で中国人はとにかく人数がめっちゃ多いんで、そういうのとは一線を画するタイプの意見っていうのはこっちはこっちで超すごいレベルのが紛れているだけでなく確実に一つの流れとしてあって、「そこの部分」と協力して一つの流れを作れるかどうかが大事になってくるのだと思います。)

今回はその話について考えてみたいと思ってます。

1. 「目覚めた中国人」の言い分がそれ自体検討される流れがある

いろんな例があるんですが、一番印象的だったのが、ドイツ人が「中国は民主主義じゃないから民衆がちゃんと扱われるとか無理だろ」的な話をした事に関して、中国人が大真面目に反論してる長文ポストがすごいバズってて、むしろ欧米人の側からも「たしかにww」ってなってたのが以下です(少し長いですが日本語自動翻訳を下部にコピペします)。

私はこのドイツ人の友人の疑問に対して、真剣に答える用意が十分にあります。

あなたの最初の質問は、要するに、中国が権威主義政府であるため、人民が政治的に真剣に扱われていない、ということです。

この命題自体が間違っています。権威主義政府とは、人民が真剣に扱われないことを意味しません。民主政府とは、人民が真剣に扱われることを意味しません。

シンガポールは権威主義国家で、フィリピンは民主国家ですが、シンガポール人の境遇がフィリピン人より劣っているでしょうか? 中国は権威主義国家で、インドは民主国家ですが、中国人の境遇がインド人より劣っているでしょうか?

あなたの二番目の質問ですが、あなたの問いかけ自体が厳密ではありません。中国人に政治的自由がないと一概に言えるものではありません。この問題は、二つの次元に分けて考える必要があります。

1、政治参加の自由。
この次元から言えば、中国の誰にでも政治に参加する自由があります。中国人には入党を申請したり、公務員試験を受けたりする権利があります。選抜ルールは民主制度と異なりますが、中国人に政治参加の自由がないわけではありません。

中国制度と民主制度の違いは、次の点にあります:

民主制度の下では、一人が金さえ持っていれば、いつでも政治に参加できます。トランプのように、一生政治経験がなく、年を取って突然大統領選に出たいと思えば出馬でき、しかも成功しました。

しかし中国では、どんな公務員も基層の公務員から始めなければなりません。一人が金持ちだからといって、一足飛びに高官になれるわけではありません。

この制度の利点は以下の通りです:

A、公平性。
中国には、胡錦涛、温家宝、汪洋、李強など、多くの高層指導者が平民家庭出身です。習近平のような紅二代は、むしろ例外です。

B、専門性。
どの高層指導者も、何十年もの異なる級のポストを経験しなければなりません。彼らの国家の各層面への理解と統治経験は、起業家、スター、または一つの都市を統治したことのない議員とは、比較になりません。

C、遠見性。
指導者が短期的な、非理性的な民意に縛られないため、長期的な発展戦略を計画でき、唯一の執政党によってその戦略の長期・効果的な実施を保証できます。

D、政策が資本の干渉を受けない。
あなたが政界を選べば、商売はできません。商売を選べば、政界には入れません。これにより、資本は資本、政治は政治となり、資本が政治に干渉できません。

2、政治的権利の自由。
もちろん、中国制度には「表面的な」代償があります。なぜ「表面的な」のかは、後で説明します。まず、この代償について。

代償とは、中国人が政府を罵倒したり、政策を攻撃したりする自由を持たないことです。私たちは政府を批判できますが、それは事象に即した理性的な文脈の中でなければなりません。「習近平下台」や「共産党下台」と叫ぶことはできません。

私たちには、全国的な選挙の自由や、政党を設立する自由もありません。

これらの「代償」がなぜ表面的なものかを、一つの寓話から説明します:

ある農場主が死ぬ間際に息子に尋ねました。「豚は飼料が悪すぎると文句を言い、牛は仕事が重すぎると不満を漏らし、鶏は巣が汚すぎると不平を言っています。どうしたらいい?」 息子は「良い飼料を与え、軽い仕事をさせ、鶏の巣を掃除する」と答えました。農場主は首を振って言いました。「何もするな。票を与えて、お前かお前の妻が彼らを管理するかを選ばせろ。彼らにこの家を自分たちが主宰していると思わせろ。」

この寓話は、私たち人民として何を求めているかを考えさせます。私たちが求めているのは、実はより良い生活であって、票や政府を罵る自由ではありません。

冒頭の例に戻ります。シンガポールは多くの民主国家が持つ政治的自由を欠いていますが、誰もシンガポール人が抑圧されているとは思いません。

これが、自由の定義に関わってきます。自由とは一体何でしょうか?

ルーズベルトの定義によれば、自由には、言論の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由が含まれます。

社会の自由度を計算する際、私たちは単一の自由の量ではなく、自由の総量を計算します。

例を挙げます。多くのアフリカ諸国は票と政府を罵る自由を持っていますが、人民は貧困で、移動は足頼みです。私は中国で、生活は豊かで、商品は豊富、サービスは便利、コミュニティは安全です。私は3時間の高速鉄道で大都市に到着でき、経済的に余裕があれば時折海外旅行もします。

あなたはアフリカ人が自由だと思いますか、それとも私が自由だと思いますか?

確かに、中国にはまだ多くの人口が、物質生活の面で自由ではありませんが、これは経済発展の不十分さが原因で、政治的抑圧が原因ではありません。貧困地域に票と政府を罵る自由を与えたところで、彼らが富裕になるわけではありません。

したがって、自由について語る際、あなたは自由の総量を計算しなければなりません。一つの自由の有無や多寡だけを見てはいけません。また、経済問題を特定の政治的自由の問題に帰責してはいけません。

率直に言って、私はあなた方の民主制度はすでに病膏肓に陥っていると思います。中国人はあなた方のような制度を羨ましがっていません。

これ↑、もちろん「そのまま丸ごと同意できるもんじゃないぞ」と民主主義国家に生きる人間からは思うけれども、一方で「中国人がそう考える事は十分理解できる」みたいな感じではありますよね。

2. 「ネズミを取る猫が良い猫だ」的価値観の浸透は避けられない時代

そもそも世界中の民主主義国家が社会的分断によって機能不全化しまくっていて、「眼の前の現実的な課題」に対処する事すら難しくなっている時には、鄧小平の言葉だという

「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕るのが良い猫だ(不管黑猫白猫,能捉到老鼠就是好猫)」

つまり、「ちゃんと機能している政体」こそが正しいのだというプラグマティズム的な考え方の説得力が増してくるのは避けられないわけですよね。

選挙してれば民意がちゃんと反映されていると言えるのか?むしろ機能不全化して何もできなければ「民意」どころではなく、欧米人自体がその機能不全性に嫌気をさしているのが今じゃないのか

…みたいな事を言われると、なんというか、全面的に賛同するわけにはいかないにせよ頭ごなしに否定はできない。

トップ画像にしたこういう感じ↓の見方が広がってきている流れは実際にあってそしてそれは止められない。

もう一個、さっきの中国人の彼がスペイン人に対してこんなことを言っていて、

私の記憶が正しければ、スペインには国王がいます。イギリスやデンマークなどの他のヨーロッパ諸国と同じく、王室を残しています。 私たちの考え方では、あなたたちの国王は、私たちの清朝の皇帝と同じく、封建君主で、現代の市民社会における人人平等の政治理念に反するものです。
私たちは清朝が滅亡し、中華民国が成立した初期に、初代大統領袁世凱が帝制を復活させましたが、わずか83日で皇帝から引きずり下ろされました。 だから、中国人から見れば、封建君主は残すべきではありません。たとえ立憲君主制で国王に実権がなくても、それは封建の残滓です。
しかし、私たちは立憲君主制の国々の人々が違う見方をしていることも理解しています。彼らは、王室を民族の象徴として、民族の合意を結束させる重大な意義があると考えています。これに対して、私たちは理解し、尊重します。
中国の言論の自由の問題に戻ります。なぜ指導者を侮辱することを許されないのか? それは指導者が過ちを犯さないと信じているからではありません。指導者も人間で、神ではありません。批判されるべき点は必ずあります。しかし、私たちは侮辱的な批判を禁じています。 これは権力を守ろうとしているわけではなく、彼が最高権力を持っているから特権を与えなければならないというわけでもありません。私たちが国家の対立と分裂を避けたいからです。

これも、両手をあげて賛成はできないにしろ、頭ごなしに否定もできない。実際、ただ自分が気に食わないヤツを罵倒すること自体が自己目的化しちゃって、社会をどうしたいとかいう意思は皆無な言説が民主主義社会を混乱に陥れまくっているのを考えると・・・

3. 中国からの異議申し立てが持つ「根底的な相対化」の先へ

実際、ここで紹介したポストはグローバルにバズりまくっていて、最初のポストなんかは3.4万いいね、270万ビューを超えてました。

民主主義は終わった!とか言いたがる欧米の右翼以外でも、ある程度中道的な良識のある欧米人からも「なるほど一理ある」みたいな反応がかなりあった。

中国人からだけでなく、欧米人から見ても「確かにそりゃそうだ」としか言いようがない、「欧米と非欧米を対等に見た」言説がここにはあるんですよね。

いままでによくあった例としての、「欧米文明中心主義への反省」みたいな文脈を安易に推し進めると、いわゆる欧米人が考える「ポスト・コロニアリズム」的な立場がありえるんですが、そういうのは、

単に無限に「弱者の味方のふり」をすることによって「自分は無傷で完全な”啓蒙”の主体」であり続けたいという欺瞞がある

んだけど・・・

一方でこういう「中国人側の言い分」というのは、「欧米人の理屈」が辺境において解像度が荒くなりすぎて現実を扱えなくなって問題が起きることに対して「現実的な責任」を取ろうとする意思を持ちつつ、とはいえ欧米側の理屈を否定するでもない、独特のポジションを形成してる面があるんですよね。

本当の意味での「欧米と非欧米の完全な相対化」があって、その先で「ネズミを取る猫が良い猫」だというプラグマティズムの基準での厳密な選別がこれから行われるべきなのだ、という含意がある。

ある意味で、共産主義社会がその存在によって資本主義社会が格差是正のためのアレコレの仕組みづくりを整える契機を与えていたように、中国政府という存在によって、民主主義社会において「ただお互いを罵倒したいだけで社会にある問題をどう解決するかという視点がない議論」みたいな部分のモラルハザードを抑止するという良い影響を与える関係性というのが今後生まれていくのかもしれません。

で、僕自身が「こういうこと」を今までずっと言ってきた側面があるからこそ、「中国人のインテリ」がちゃんと自分の言葉でこういう意見を述べて、ちゃんとグローバルにバズっている状況にはかなりの希望を感じる部分がありました。

4. 「そう言われるとそうだね」と「そうはいってもね」の間に

こういう中国人の言い分に対しては、「そう言われると確かにそうだね」っていう部分と「そうはいってもね・・・」っていう部分が両方あるんですよね。

同時期に、サッカーフランス代表のエムバペ選手が毛沢東について「独裁者」だと言ったことに中国側が反発して、あらゆる中国系のスポンサーが降りると脅しにかかって謝罪させられた事件があったんですけど・・・

それについても、これは別の中国人ですけど、

欧米のナラティブ構造の中では、西式民主主義じゃないものは何でも独裁だ、って感じで、これは君たちのナラティブ構造における一貫した傲慢さと偏見だよ。

って言ってる人がいて、「まあそりゃそうなんだが」という話ではあるけど、とはいえ独裁者は独裁者だし、チェックアンドバランスが一切働かないスーパーパワーが人類社会に生まれることの恐ろしさ、みたいなのをどう考えればいいのか、みたいな話では、そう簡単にはこういう「中国人の言い分」をそのまま受け入れるわけにもいかない部分がありますよね(実際、中国人自身が歴史上”そういう恐ろしさ”を身を持って体験してきたとも言えるわけで)。

もちろん、中国人にもこの現象に批判的な人は結構いて、実際、毛沢東の業績は中国共産党も「誤りも多かった」と総括している中で、こういう国際的騒動になること自体が中国人の余裕の無さを表していて、長期的な評判に関わるのでは?みたいな議論も沢山見ました。

要するに、「欧米文明中心主義」的なアナクロな線引きで辺境のリアリティを押しつぶすのはダメだけど、一方でやはりもっと高精細な視点で、非欧米諸国の現実をすくい上げつつも、「チェックアンドバランス」が適切に働くような構造を、これはこれで「ネズミを捕る猫が良い猫」的な発想で作っていかないといけない時代なんだってことですね。

5. これからの日本の役割は?

結局、「中国側の言い分」には、グローバルな今の世界において「一理ある」ぐらいの部分は沢山あるっていうことと、「中国という巨大パワーをどうやって人類社会が受け止めればいいか」については全く別問題として考えるってことが、「両方」必要になってくるんだってことなんですよね。

冒頭にも書いたけど、「中国人のxポスト」っていうのも、あまりにもピンキリのギャップがあるっていう点においては日本のネットと変わらないかそれ以上であって、本当にただの盲目的愛国が極まってそれ以外をディスりまくってる人たちも沢山いて、「そういうモメンタム」にはちゃんと押しあって拮抗させていくことが絶対必要になる。

だから以下記事で書いたように、「中国人の言い分というのをちゃんと理解して現行グローバル秩序につないであげる」ことと、とはいえ「軍事的なレベルも含めた”拮抗状態”をなんとか維持して、中国側が”あらゆるチェックを排除できる無制限のパワー”になってしまう事自体を抑止する」ことと、「両方」をやっていかないといけない。

米中拮抗時代の日本の生きる道(外部発信復活します!)|倉本圭造
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でも最近は、「中国側のインテリ」との間に「東アジア人としての文脈」でコミュニケーションしていくことで、この「両面」をそれ自体としてやっていくことは可能かもしれないな、という感じはちょっとしてきてますね。

「対応してくれるはずの層」が可視化されてきたというか。韓国も含めてですけど、それぞれの国の「SNSで暴れてるヤバい層」をバイパスして「わかってる層」同士が暗黙のコミュニケーションをしていくような形は可能だという感触が少しずつ見えてきているように思う。

そこの部分の「対東アジアコミュニケーション」においては、欧米人的な「ゴリ押しの啓蒙主義」みたいなものを一端脇において、徹底的に「ネズミを捕る猫が良い猫」方式で落としどころを探っていく。

一方で、ちゃんと「軍事的拮抗状態」を作る事自体が東アジアの平和のためにも、これからの中国が国際社会にちゃんと受け入れられるためにも必要なんだ、ということは、日本側がちゃんと押し出していかないといけなくて、しばらくは大変な役割が続きますけども・・・

「アメリカによる秩序」が揺らいできてるということは、「単に反米したいから中国のいうことを全部称賛する」みたいな一貫性のどこにもない態度では本当の解決はできないってことなので・・・

「いうべきことをちゃんという」と同時に「中国側の言い分で当然受け入れられるべきものをちゃんと取り上げていく」というような、そういうコミュニケーションによって、個人個人が勝手に「自分の絶対神」を設定するゆえにどんどん分極化していってしまう現在の欧米型グローバル社会における、新しい代替選択肢としての、「徹底的にプラグマティックな平和の土台」を作っていくことが、これからの日本に必要なことなのだと思います。

もう十年以上前に書いた本に使った図なんですが、「欧米風の啓蒙主義が概念先行すぎて辺境において現実の細部を扱えていない部分」を、いかに「辺境」において補完して「現実と合致」させるか・・・という課題があって、今までは「日本が」それをやらなきゃと思ってたんですけど・・・

一方で、フランスの現状に批判的なSNS空間の情勢を見ていると、なんだかんだ中国人にも韓国人にも、その「インテリ」世界においては共通した新しい視野が見えてきているのを感じるところがあるんですよね。

要するに、チェックアンドバランスを隅々まで行き渡らせて、誰かを暴走させずに、社会の秩序を維持したまま「良い」政治を行うということが「目的」であって、選挙してればいい、暴動を起こせば良い、それこそが神聖な行為なのだ、みたいなのではダメなんじゃ?っていうような「うっすらとした東アジア的共感関係」みたいなのは生まれつつある。

それが急激に閉じすぎて、「もう人権とか面倒くさいこというのやめようぜ」みたいになったらダメなんですけど・・・

丁寧に丁寧に「包囲網」を狭めていくことで、「絶対神というフィクション」を設定する結果東欧でも中東でも戦争がやめられない人たちを脇目に、そういう構造自体を徹底的に相対化した先で、「徹底的にプラグマティックな新しい目線」によって平和を保つ、そういう「アジア的土台」を作っていくことがこれから必要になってくるし、既にそういう「萌芽」はあるな、と最近は感じています。

とりあえず日本は中国に対してある程度ファイティングポーズを取り続けなくちゃいけない面もあるのでしばらくはそうなりますが、そのうちそれが「お互い喧嘩ばっかしているようで協力するべきときは協力するスラムダンクの湘北チーム」みたいなものに転化していく流れを具現化していけるといいですね。

以前、イランで戦争が始まった時にxで見かけたポストなんですけどw

こういう感覚も一部には見えてくるといいですね。

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長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここ以後は、もう一個の「グローバルに影響の大きい選挙結果」みたいな感じだったブラジルのルラ大統領再選みたいな話について、「それがもたらす新しいトレンド」はどういうものになりそうか、みたいな話について話してみたいと思ってます。

大事なのは「反米」ではあるけど「ベネズエラ型にあまりにも極端なことをやろうとして破綻する」という感じではないタイプの「左派」政権というのが見えてきているのが大きな希望だ・・・という話になります。

南米は「反米したい」となると現実的には相当無茶なことをやることになったり、逆にアルゼンチンみたいのミレーみたいに「あまりにもアメリカべったり」みたいな方向に振り切れていったりという、あまりに「両極端」的な感じになるのが色々と問題だったんですが・・・

そういうところに新しい着地点が見えてくるかも?それが可能になってきた「背景」にはどういうものがあるのか?みたいな話とか、「親米vs反米」みたいな構造自体が融解してきた現状が持つ価値みたいな考察とか、それが日本の今後にもたらす意味とかを考えます。

ブラジルの政治とか一ミリも知らない人でもわかる基礎知識みたいなところから話すんでぜひ読んでいってください。この「一件」の背後に大きな歴史的大転換が見えてくるかもという話になります。

購読すると既に200以上ある記事の有料部分も全部読み放題になるんで、ピンときたらぜひどうぞ。

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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。


編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2026年10月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。

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