厚生年金データで「公共版OpenWork」を作れ

就職や転職は、人生における最も大きな意思決定の一つである。

ところが、求職者が企業について得られる情報は驚くほど限られている。

求人票には給与、勤務時間、休日、仕事内容などが書かれている。しかし、実際の残業時間はどの程度なのか。有給休暇は本当に取れるのか。管理職は部下を適切に扱っているのか。入社した人が次々と辞めてはいないか。

こうした「本当に知りたい情報」は、入社してみなければ分からないことが多い。その情報の非対称性を埋めてきたのがOpenWorkなどの民間口コミサイトである。

しかし、日本政府は民間企業にはない、さらに強力な情報基盤をすでに持っている。

厚生年金である。

国は「誰がどの会社で働いていたか」を知っている

一般的な会社員が就職すると、会社は健康保険・厚生年金保険の資格取得手続きを行い、退職すれば資格喪失手続きを行う。日本年金機構にも、就職時の資格取得、退職時の資格喪失という仕組みが存在する。

つまり行政には、適切な法的手続きを前提とすれば、企業と労働者の在籍関係を確認できる基盤がすでに存在する。

これを年金給付とは無関係な目的で勝手に使ってよい、という意味ではない。

現在の個人情報保護法制では、行政機関による保有個人情報の目的外利用・提供は原則として禁止されており、恒常的に別目的で利用するなら、利用目的をあらかじめ特定するなど法的な整理が必要になる。

したがって、必要なら法改正を含めた制度設計を行えばよい。

重要なのは、個人の勤務履歴を公開することではない。

勤務履歴を「本当にその会社で働いた人なのか」を確認する認証手段として使うのである。

「Verified Employee」の仕組みを国が作る

例えば、ある人がA社について評価を投稿するとする。行政システムが社会保険記録などと照合して、実際にA社に在籍した事実だけを確認する。確認できれば「在籍確認済み」としてアンケートへの回答を認める。

公開するのは氏名でも年金番号でも勤務履歴でもない。例えば、「求人内容と実態の一致度」「有給休暇の取りやすさ」「管理職への信頼度」「人事評価への納得度」「教育・能力開発」「この会社を知人に勧めたいか」といった標準化された評価を匿名・集計した数字だけである。

例えばA社について一定数以上の回答が集まれば、

  • 求人内容との一致度 4.6/5
  • 有休取得のしやすさ 4.3/5
  • 管理職への信頼度 4.1/5
  • 従業員推奨度 82%

などと表示する。

一方、B社が、

  • 求人内容との一致度 2.2/5
  • 有休取得のしやすさ 1.8/5
  • 管理職への信頼度 1.6/5
  • 従業員推奨度 19%

だったらどうだろう。

求職者はかなり慎重になるはずだ。

口コミより強力なのは「定着率」である

さらに重要なのは、従業員の主観的評価だけではない。

社会保険の資格取得・喪失情報を、十分な匿名化や秘匿処理と法的根拠の下で統計化できれば、企業ごとの人材定着状況をより客観的に把握できる可能性がある。

例えば、

  • 1年定着率 92%
  • 3年定着率 81%
  • 5年定着率 70%

という会社と、

  • 1年定着率 55%
  • 3年定着率 28%
  • 5年定着率 15%

という会社があったとする。

どちらで働きたいか。

企業は求人広告ではいくらでも美辞麗句を並べられる。「社員を大切にする会社です」「アットホームな職場です」「風通しの良い職場です」……。

しかし、人が実際に残っているかどうかは、はるかにごまかしにくい。

現在でも厚生労働省の「しょくばらぼ」では、新卒者等について直近3事業年度の採用者数と離職者数などを掲載できる。

ならば、この発想をさらに進めればよい。

実は「しょくばらぼ」という器はすでにある

新しい巨大な行政システムをゼロから作る必要もない。厚生労働省はすでに「しょくばらぼ(職場情報総合サイト)」を運営している。

2026年7月1日時点で約14万8000社が掲載され、勤務実態、採用状況などの職場情報を検索・比較できる。

しかし現在の「しょくばらぼ」は、若者雇用促進総合サイト、女性の活躍推進企業データベース、両立支援のひろばなどの情報を集約し、企業自身が情報を直接入力することもできる仕組みである。

ここに欠けているものがある。労働者側から見た会社の情報である。

そこで「しょくばらぼ」を拡張し、

  • 企業が開示する情報
  • 行政が保有する匿名統計
  • 在籍確認済み従業員による評価

という3つを組み合わせればよい。いわば「公共版OpenWork」である。

ブラック企業を国が認定する必要はない

この制度で最も重要なのは、政府が「良い会社」「悪い会社」を決めないことである。行政が、「この会社はブラック企業です」などと認定すれば、当然ながら基準をめぐる争いが起きる。

そんなことをする必要はない。行政の仕事は、信頼できる情報を市場に提供するところまででよい。

そして求職者に選ばせる。

給与が低い。休みが少ない。離職率が高い。従業員評価も低い。

そういう会社には人が集まらなくなる。

逆に、知名度の低い地方の中小企業でも、給与が適正で、休暇を取得でき、管理職がまともで、長く働く社員が多ければ、その事実が求職者から評価される。

これは非常に重要である。

現在の採用市場では、広告宣伝力や知名度のある企業が圧倒的に有利だ。

公共版OpenWorkがあれば、「良い会社であること」そのものが採用競争力になる。

人手不足企業を救うことが雇用政策なのか

現在、日本では人手不足が大きな問題になっている。

しかし、ここで考えなければならない。人が集まらない会社に、ハローワークが求職者を送り込むことが、本当に望ましい雇用政策なのだろうか。

本来、労働市場には企業を選別する機能があるはずだ。

良い会社には人が集まる。悪い会社には人が集まらない。

人が集まらなければ、経営者は賃金を上げる。休日を増やす。管理職を教育する。設備投資やDXによって生産性を上げる。それでも採算が取れなければ、価格を上げる必要がある。

価格を上げることもできず、賃金を上げることもできず、人材を確保することもできない企業は、縮小、事業売却、統合、あるいは退出を迫られる。それが市場経済である。

ところが、企業について十分な情報がなければ、求職者はその選別を行えない。結果として、良い会社と悪い会社の差が採用市場に十分反映されない。

「人手不足対策」から「良い企業への労働移動」へ

日本の雇用政策には発想の転換が必要なのではないか。「人手不足の会社にどうやって人を送り込むか」ではなく、「人材が良い会社へ移動できる市場をどう作るか」を考えるのである。

そのために必要なのは補助金でも求人広告でもない。情報である。

政府はすでに社会保険制度を運営し、ハローワークを持ち、「しょくばらぼ」まで運営している。足りないのは、それらを労働市場の情報インフラとして結びつける発想だ。

もちろん、年金・社会保険情報は極めてセンシティブな個人情報である。目的外利用には厳格な制限があり、制度化するなら法的根拠、本人の権利保護、最低集計人数、匿名化、再識別防止、不正アクセス対策などを徹底しなければならない。

だからこそ、個人情報そのものを公開するのではない。在籍確認と匿名統計に限定して利用する。

行政が企業を評価するのでもない。働いた人の評価と客観的な定着データを、求職者が判断できる形にするだけである。

ブラック企業を政府が取り締まるだけでは、労働市場は変わらない。

良い企業に人が集まり、悪い企業から人が離れる仕組みを作る。

厚生年金という巨大な行政データと「しょくばらぼ」を組み合わせれば、その仕組みを作れる。そのためのインフラを日本政府はすでに半分以上持っているのだから。

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