複雑系としての経済 - 池田信夫

池田 信夫

安冨さんから突っ込まれると思って、脚注をつけといてよかった。おっしゃる通り、新古典派の「均衡」概念は間違っています。経済のような開放系では均衡は永遠に成立しないので、古典力学をモデルにするのはナンセンスです。むしろ経済を剰余の蕩尽と考えたバタイユのほうが、自然科学的には正しい。


この問題はかなり昔から議論されていて、Georgescu-Roegenなどがエネルギー代謝を考えた経済学を構想しましたが、結果的には大したものにはならなかった。安冨さんが『貨幣の複雑性』を出したころ、私も進化ゲームのシミュレーションをやっていたのですが、複雑系や進化ゲームの流行は90年代で終わってしまいました。

これにはいろいろな理由がありますが、盲目的なエージェントのランダム・マッチングという設定でいえることは限られていました。また進化ゲームの計算がむずかしい割には、進化的安定戦略は実質的にはナッシュ均衡とほとんど変わらないので、進化ゲームでしかいえないことが意外に少なかった。静学的な経済は、定常状態を擬似的な平衡とみなす古典力学モデルでも、ある程度は近似できます。

しかし厄介なのは、成長理論です。新古典派成長理論は実際の経済成長をほとんど説明できず、70年代には消滅しました。ところが、それと前後して出てきた合理的期待モデルが次第に成長理論に進出し、最近の教科書では両者はほぼ一体です。DSGEでは「代表的家計」が最適な成長を計画して実現すると想定され、Acemogluの教科書では動的計画法でマクロ経済が記述されています。つまり現在のマクロ経済学は明示的に計画経済の理論なのです。

このような理論が非現実的だという批判も昔からありますが、すべての経済主体が永遠の将来までのマクロ経済状態を正確に予想する、と文字どおり信じている経済学者はいないでしょう。これも新古典派の完全情報・完全予見と同じく、問題を簡単にする方便だから、仮定そのものの妥当性を論じてもあまり意味がない。すべての科学理論がそうであるように、他の理論と比べてどっちが役に立つかという相対評価で判定するしかありません。

この基準でいうと、Woodfordに代表される現代のマクロ経済学のパフォーマンスは、最近までかなりよかったと思います。DSGEが世界各国の中央銀行のコンセンサスになり、それをもとにして金融調整を行なった結果、インフレが抑制され、長期にわたって世界経済は安定していました。

しかし今回の経済危機は、このコンセンサスを打ち砕きました。DSGEでは均衡(定常状態)は一つだけ存在し、経済はつねにその近傍にあると仮定していますが、現実には均衡から大きく外れた状態が持続しています。こういう複数均衡の状態でどの均衡が選ばれるか、あるいはどうすれば望ましい均衡を実現できるかについては、理論的な答は出ていません。

過去の大きな経済危機のすべてに共通する特徴は、金融システムの崩壊が経済全体を大混乱に陥れるということですが、実はこの自明ともいえる現象を説明できるマクロ経済理論はありません。ケインズなどの過少消費説は金融システムとの関係を説明できないし、新古典派的モデルにはそういう問題が存在しない。市場はつねにクリアされ、資金繰り(現金制約)の問題は原理的に起こらないからです。

こういう厄介なことになるのは、安冨さんもいうようにそもそも経済成長を熱的な平衡と考えるのが間違っているからです。むしろ経済学は、本来は非平衡系の熱力学に近いのでしょう。そういう研究もサンタフェ研究所などで行なわれ、一部でBrian Arthurの「収穫逓増」が流行したこともありますが、大したものにはならなかった。収穫逓増ぐらいなら新古典派モデルでもいえます。

昨今の危機を理解するには、経済を非線形の複雑系と考える必要があると思いますが、その複雑性があまりにも高く不規則なため、自然科学で使われたカオス理論の類ではとても記述できず、極端に単純化したモデルしかできないのが現状です。それも安冨さんが批判するように経済主体をオートマトンとして機械的に動かすシミュレーションなので、個人の知識や不確実性などは入らない。

似たような問題意識はAkerlof-Shillerにもあり、彼らも複数均衡的な状況を古典力学とは異なるフレームワークで考えようとしているようにみえます。今のところ、その理論は素朴なお話の域を出ていませんが、かつてAkerlofの「レモン」の寓話が経済学のブレークスルーを生み出したように、ここから新しい理論が出てくるかもしれません。