ソフトバンク問題「総括の総括」 - 米重克洋

米重 克洋

今度こそ、本当に「総括」と言える投稿になりそうです。アゴラでの勝手がわからず、言葉足らずの拙文を書き連ね心苦しい感じもしましたが、漸く議論の収束を迎えることになり不思議と「ひと区切りついた」感慨を覚えます。似非議論で終わりそうだった今回の件を、真に「議論」「言論」と呼べるものに引き上げてくださった安冨さんにまず心よりお礼申し上げたいと思います。

以下にて、安冨さんの前回の投稿へのお返事と”締め”となる感想を記したいと思います。


まず、私が「就職活動」と「販売合戦」が同じゲームに含まれる行為同士ではないかと考えた経緯をご説明します。

もとより私は、この両者を「ゲーム」「ゲームの行為」「ゲームのルール」などの基軸に照らして考えていたわけではありませんでした。当初は「就職活動」と「販売合戦」の連関性、相似を直感的に感じ取っていた程度です。が、安冨さんのご意見を伺い、私なりによくよく噛み砕いていくうち「同じゲームのなかの行為同士ではないか」という結論に至りました。

私の「直感」とは、現在ソフトバンクが置かれている経営環境から来たものです。
飽和状態と言われる日本の携帯電話市場において、ソフトバンクはここ2年近くの間月間純増数首位を維持し、如何にも絶好調に見えます。が、それでもシェアはダントツの3位です(松本さんには大変失礼ながらこう表現させていただきます)。上位2社との差は縮まってこそいますが、その遅々たるや孫さんをさぞ焦らせているだろう、と感じます。確かに努力している、そして確かに結果も出ている、にも関わらずその程度が小さい ― というのは経営者としては非常に苛立ちますし、焦れったく感じるものです(少なくとも私はそうですし、孫さんもそうであろうと畏れながら推察します)。

こうしたことから、恐らくソフトバンクが業界首位ないし2位(つまりNTTドコモやKDDIの立場)であれば、こうした営業力重視の「採用活動」を思いつき、繰り出すこともしなかったろうと思うのです。
尤も、ソフトバンク自身もある程度議論を呼ぶと推測したでしょうが、それも所詮「ある程度」までであれば許容できると考えたのでしょう(結果読み違えだったわけですが)。そこで、安定を求めて門を叩く甘っちょろい学生だけでなく、身内たる社員へのメッセージもこめて「営業力重視」を派手に打ち出したのではないでしょうか。

そうしたことから、採用活動と表裏一体のものである「就職活動」と、「販売活動」とが完全に分け隔てられるものだとは思いませんでした。私はむしろ、それらは密接に関連しあう”不可分”のものではないかとさえ考えたのです。

※追記—-
この記事投稿後、私の申し上げたかった「連関」「不可分」について別の分かりやすい例えをされているブログを見つけました。勝手ながら引用させていただきます。

営業職の採用試験として、実際の営業活動を行う事は、プログラマの採用試験として、試験時間内に課題のプログラムを作成するのと本質的な違いは無いと考える

自社の利益になる、ならないなどの点で余地のある例えではありますが、わかりやすいものとして紹介させていただきます。
—-追記終わり

ソフトバンクは今まさに正念場です。恐らくあの企業がなければ、日本人の多くは今でもダイヤルアップの低速インターネットをバカ高い料金で”使わせていただく”という惨状に甘んじていたでしょう。現在の日本のそこそこ高度な通信環境は、一貫してチャレンジャー(挑戦者)の立場にあった同社の果敢な取り組みによってやっとこさ実現したものであり、彼ら自身もまた自らが「安定した大企業」即ち非・挑戦者の立場に甘んじることを恐れているはずです。彼らが今後もチャレンジャーであり続ければ、日本の通信業界もよりよい方向に進化を続けるでしょうが、そうでなければソフトバンクも日本もろとも潰れてしまいかねません。

ただ、安冨さんの仰る「ゲームが行為の交換により発展する」という意味はよく分かります。ラグビーも、フットボールに興じていたはずの選手がボールを抱えて走るという「掟破り」が現実のゲームとなってしまったと言います(諸説あるようですが)。行為がルールに言及するというよりも、その行為の受け取り手、そして受け取り方が個々人のなかのダイナミズムで発展し、結果新たなルールやゲームを生む、ということはあると思います。尤も、これは安冨さんのお話を私なりに解釈した結果であり、誤った解釈であれば申し訳ないのですが ―。

結果として、私も正直ソフトバンクの件はどうでもよくなってしまいました。
ソフトバンクが制度を撤回したことは率直に言って「残念」と感じます。しかし、大騒動を起こし、それがソフトバンクという企業の社会的名声を貶めるまでになるとすればそれは彼らの意図するところではなく、撤回は賢明な経営判断と言えます(もちろん私の意図するところでもありませんでした)。議論のきっかけとなった「事件」は終息し、そして今収束しつつある議論でも得るものが多くありました。結果「どうでもよくなる」のは私とて同じことです。

私こそ今回の議論を通して多くのことを学んだと感じますし、何よりwebという特殊な空間において、これほど自分自身にとって実のある議論を行えたことは未だ嘗てありませんでした。しがない二十歳の大学生兼起業家が、日本の最高学府の先生と正面から議論を提起しあうという事はそれ自体尋常ではないと感じます(本当は安冨先生とお呼びしなければならないはずです)。
この貴重な経験そして議論について、安冨さんに心よりお礼を申し上げるとともに、私のこの場への参加を認めてくださった池田信夫さんにもお礼を申し上げたいと思います。

私が「実名で、相互に立場や考えを明らかにしながら言論を展開していく「アゴラ」の良さが段々判ってきました」と記したのは、私自身が今回実名でソフトバンクについての議論を提起してしまった結果、匿名・不特定多数の人間から非難を浴びたことがきっかけでした。
しかも、それらの非難は議論への参画と呼ぶには程遠い「勘違い」「決め付け(レッテル張り)」「中傷」が殆どという惨状でした。もちろんそうでないもので、私の論を1つ1つ検証し批判してくださるブロガー氏もありました(しかと拝見しました)が、そうした方にはコメントやメッセージを残して感謝の意を表したいと思うくらいでした。

私は匿名で寄せられる極めて不毛な非難を目にして、不思議と「怒り」や「呆れ」という感情は湧かず、むしろ匿名だからこそ出来る無責任でいい加減、且つ軽佻浮薄な「議論ごっこ」を羨ましくさえ思いました。
が、それも議論の進展により落ち着くべきところが見えたように思い、その時点で、先立つ結論と感情により盲目にされた者たちが言葉尻を捉えて誤謬を言い募るような「議論ごっこ」の浅ましさ、くだらなさを改めて認識するに至ったのです。

そうした帰結に至った最大の要因は、やはりアゴラが「実名制」であったことだと思います。実名であり、かつ自分自身の社会的な身分・立場さえも明らかであるこの議論では、いい加減にそれを終わらせて放棄することは出来ません。発言や議論には責任が伴うからです。

はじめに「総括」と題して締めかけた時は、今回の「ソフトバンク問題」に関してアゴラ上で各人が意見表明し、問題提起する形で終息するだろうと見ていました。また、ひとつの問題でアゴラの「紙面」を激しく埋めてしまうのも問題かとも考え、アゴラで最初に今回の問題を提起した張本人の「責任」として自分の感想を相当かいつまんで記したというのが実際です。しかし、これに対して安冨さんが綿密に再反論してくださったことで、後から見れば実に中途半端なあの終息の形を回避することが出来ました。
こうした経過から、アゴラでの有意で生産的な言論の秩序を形作っている最大の要因が「実名制」にあるのではないかと考え、それが前回冒頭の言葉につながったのです。

これで安冨さんの仰る「真理の探究」に相応しいお答えになっているかどうか甚だ不安ではありますが、ひとまず私のお答えとさせていただきます。ご紹介いただいた論文も、今回の議論の片一方の当事者として大変関心を持つものですので、ぜひとも拝読します。

改めて、本当にありがとうございました。

米重 克洋(株式会社JX通信社CEO/学習院大学経済学部経営学科2年)