日本の経済学者はなぜ無視されるのか - 池田信夫

池田 信夫

きのうの松本さんの記事に関連して、私も経済学について似たような印象をもっています(経済学が科学だとすればですが)。日本の政治家も官僚も、経済学者の話を審議会や「研究会」などで聞くけど、それが政策にまったく反映されない。渡辺喜美金融担当相は「経済学の本は1冊も読んだことない」と公言していたし、3月に行なわれた「有識者会合」は見ていて寒くなりました。


これに対して欧米の経済政策を動かしているのは、バーナンキにしてもサマーズにしてもローマーにしても、超一流の経済学者です。この違いの原因は、先日の記事でも書いたように、日本の経済学者にもありますが、最大の問題は、日本の政治が政策論ではなく「政局」的な人間関係で決まるので、専門知識が役に立たないことだと思います。麻生首相の「政局より政策」という口癖が、それを逆説的に示しています。

官僚の政策立案には少しはロジックが通用しますが、彼らは学者より自分たちのほうが(政治プロセスを含めた)政策のエクスパートだと思っているので、審議会なども「事務方」の案を御用学者を使ってオーソライズする場にすぎない。官僚にとっては、どんな立派な法案も族議員にOKしてもらわないと意味がないので、「ペラ1枚」でわからない理屈は書かない。根本的な改革の話をすると「そもそも論はいらない」と一蹴される。

これは先日の池尾さんの記事にもあった「ものつくり」の失敗と似ています。要素技術について「匠」のレベルが非常に高いので、意思決定する側はその中身を知る必要がなく、現場に「丸投げ」すればよい。ところが全体のシステム設計は、実はだれも考えていないので、システムを変更しようとすると、経営者は要素技術の中身を知らないものだから、意思決定ができない。そこで「みんながいうんだからこれでいこうや」という人間関係で企業戦略が決まってしまう。

不幸なことに経済学は、このシステム設計を考えて資源配分を最適化する学問です。つまり日本の政治でもっともきらわれる「そもそも論」なのです。これをやるには現在のシステムにぶら下がっている多くの人の既得権を見直し、硬直化した予算配分を変えるなど、莫大な「政局」的エネルギーが必要なので、賢明な(特に財務省の)官僚は最初からそういう政策を考えない。

これまでにも書いたように、日本社会を発展させてきたのは、コミュニティの自律性が高く、権力に命令されなくても人々が自発的によく働く「勤勉システム」でした。しかし今はそのシステムに限界がみえてきたので、非効率な制度を見直さないで「根回し」や「落とし所」をさぐる調整ばかりしても前に進まない。システムを理解するのに、何も最先端の経済理論は必要ありません。マンキューの入門書で十分です。