数百万部を売りつくし,未曾有のベストセラーとなった「国家の品格」の著者、藤原教授は、「日本は世界で唯一の『情緒と形の文明』である。国際化と言う名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき『国柄』を長らく忘れてきた。『論理』と『合理性』頼みの『改革』では、社会の荒廃を食い止める事は出来ない。今日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語より国語、民主主義よりも武士道精神である」と主張されました。教授は米国滞在時代相当の侮辱を受けたと見え、西洋と東洋を無理やり対立軸に取り上げて片方を排斥する主張は、数学者とは思えない感情論で感心しませんが、情緒豊かな日本語と自国語を大切にしたいというところだけは大賛成です。
しかし、それよりも、私は、同じ数学者でも、文化勲章を始め内外の幾多の賞を受賞された岡潔博士の国語愛着論に惹きつけられるものがあります。先生は起床するとすぐ自分の精神状態を分析し、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んだそうです。知識欲が次々に湧き出る「プラスの日」は、例えば柿本人麻呂の和歌も内容は元より、人麻呂の生きた時代背景、人物像まで持論を展開されました。マイナスの日は寝床から起き上がりもせず一日中眠り、無理に起こそうとすると「非国民」などと怒鳴る奇行の持ち主で、無邪気な変人として愛された人物でした。
その岡教授に初孫が生まれた頃、こんな事を書いて居られます。「二月生まれだから『もえいずる』の意味で『萌』の字を使いたかったが、当用漢字にはないので仕方が無かった。日本語は物を詳細に述べようとすると不便だが、簡潔に言い切ろうとすると、世界でこれほどいい言葉は無い。簡潔と言う事は、水の流れるような勢いを持っていると言う事だ。だから勢いのこもっている動詞を削ったり、活用を変えたりするのには賛成出来ない。兎も角、感じをあらわす字を全部削ったのは、やはり人の中心が情緒にある事を知らないからに違いない。」(尤も、この「萌」という字は、今や秋葉原で大人気の字になっているのだという事を、或る日本の友人が教えてくれました。岡教授がこの事を知ったら、日本語の情緒の有無とは関係なしに、その時々のご都合で漢字を足したり引いたりする『国語審議会』ならぬ『国字審議会』の実態にびっくり仰天されるでしょう。)
1978年に岡教授が我々の元を去られてから30年。この間に起きた日本語の変化は誠に恐ろしい物があります。環境に敏感になった日本では、動植物、魚類に至るまで外来種による生態系破壊が危機的状態だと連日警報をならしています。大変良い事です。然し、日本語も外来語、借用語、造語などの外来種の侵害を受けて、文化体系が破壊されている事にも気がついて欲しいものです。
「論理よりも情緒、英語より国語」を強く主張し、著書の中でアメリカを何回も名指しで非難した藤原教授が、「日本語が外来種の攻撃にあっている」事実には全く沈黙されているのが、不思議です。多分、商売上手の藤原教授には出版、報道界を敵に回しかねない「外来語、借用語制限論」は鬼門なのかも知れません。
「兎も角、感じをあらわす字を全部削ったのは、やはり人の中心が情緒にある事を知らないからに違いない」と言う岡教授の言葉への賛否は別として、NHKが推進する日本語と外国語との無差別な交雑が、情緒をなくし思考を薄っぺらにしている事は間違いないでしょう。
日本薄謝協会の略だと言われたNHKは、今や日本語破壊協会と呼べる程,乱れた日本語の製造普及機関になってしまいました。差別の無い社会を目指す事は大賛成ですが、放送禁止用語の選定過程も、表現の自由との関係を考えると独断専行その物です。
駄洒落、語呂合わせは最も品の悪い洒落として軽蔑された時代もありましたが、NHKの番組は駄洒落と語呂合わせの洪水です。因みに、全米で放映されている「TVJAPAN」の番組表から乱れた日本語を拾って見ましょう。
(1)外国語や外人を使う意味が不明な番組 :
BEGIN Japanology (懐石料理等の日本特有の歴史や文化を説明する番組にピーターバラカンと言う外人を起用して、英語と日本語をちゃんぽんに使って解説する不思議な番組)
(2)駄洒落、語呂合わせ、ちゃんぽん言葉の番組名一覧 :
「笑点」「バラエティー生活笑百科」「生活ほっとモーニング」辺りまでは,下らぬ語呂合わせと許せても、「東京カワイイ」「ピタゴラスイッチ」「アニメランド アニメ」「あさだ!からだ!」「アジア語楽紀行」「アジわいキッチン」
これだけ、軽薄な番組名が続くと、NHKの番組制作部門の採用ミスの多さに驚嘆します。
(3)混血造成語
「関口知宏のファーストジャパニーズ」「経済ワイド ビジョン」「ドキュメント20」「追跡!A to Z」「cool japan~発掘!かっこいいニッポン」」「歴史秘話ヒストリア」「The 女子力」「最新ヒット ウエンズデー J-POP」「Jブンガク」「CHANGE MAKER」
これが、一般視聴者から料金を半強制的に徴収している局の番組名といえるでしょうか? 何処の国にも通じない言葉を作り上げる独善を反省し、少しは日本文化、文明への影響も考えて欲しいものです。
(4)カタカナ軽薄語
「テレビジャパン・シネマシアター」「ワンダー×ワンダー 」「ミュージックステーション」「デジタル・スタジアム」「パパサウルス」「アジアンスマイル」「アバンチュール」「ニュースウオッチ9」「ナビゲーション」「パフォー!」「サラリーマンNEO」「トラッドジャパン・ミニ」
此処まで来るとコメントのしようがありません。見識ゼロ集団かと思うほどです。
アナウンサーが「セレブ化」した為か、自分の売り込みが目立ちます。ニュース番組で「マンションのエントランスで云々」とか「オーデイエンスの皆様、これからプレゼンターの云々」等と言う言葉を聴くと、吐き気すらします。アナウンサーの採用試験には国語は含まれていないのでしょうか。何故「烏賊にサーモン」とちゃんぽん語を使ったり「リメイク」の様なチンプンカン用語をNHK用語として新しく作る必要があるのでしょうか?
これ等の言葉の乱れに「KY用語」が加わり、元グラドル、グー,アラフォーなどの思い切り下品な言葉を流行らせるなら、思い切ってアルゴリズムで解読できる暗号で製作するなど、もう少し組織化された造語作業をされたら如何でしょう?
その様な事を思っていた時,クライバーン・ピアノ・コンクールで一等の栄誉を勝ち得た盲目のピアニスト辻井伸行さんのインタビューの声が聞こえて来ました。カタカナ言葉を一切使わない辻井さんのインタビューは、ピアノの演奏もさもありなんと思わせる、爽快なものでした。
耳障りと言えば、半世紀近くも前に私は韓国からの留学生を何人か自宅にお招きした事があります。その時、韓国語で言葉を交わす留学生の口から、しばしば「ミス」「ミスター」と言う言葉が聞こえて来ました。その時の説明では、戦後の韓国では女性は「ミス」男性は「ミスター」と言う敬称をつけて呼ぶ習慣が出来たとの事でした。私は、誇り高かった筈の韓国の文化も此処まで堕落したのかと一種の軽蔑を覚えたものです。
私は、外来語や借用語を排斥したりするほどの国粋主義者ではありません。只、言葉はその国の文化をあらわす大事な道具だと言うのに、懐石料理の文化的背景を外国人に解説させる番組を作るNHKの神経が理解出来ないのです。
物事には限度があり、限度の境界線を引く事は至難の業です。それにしても、日本語破壊協会と化したNHKの国語軽視は行き過ぎでは?と考え、皆様のご意見を伺う次第です。
ニューヨークにて 北村隆司
コメント
「ピタゴラスイッチ」という番組でやろうとしてることは、いままでだれもやらなかったことなのだから、「ピタゴラスイッチ」という新しい言葉を作るしかなかったのではないでしょうか?
と個人的にはおもいますけど。
>「笑点」「バラエティー生活笑百科」「生活ほっとモーニング」辺りまでは,下らぬ語呂合わせと許せても、「東京カワイイ」「ピタゴラスイッチ」「アニメランド アニメ」「あさだ!からだ!」「アジア語楽紀行」「アジわいキッチン」
新語、造語に関して、北村さんの「許せる」「許せない」の基準はどこにあるんですか?ご自分の単なる好き嫌いではないのですか?
番組名は商品名ですから、オーソドックスな言葉ばかり使っていては、番組表の中で目立つことはできません。北村さんご自身が一般消費者向けの新商品を売り出す立場に立たれたら、「正しい日本語」になんてこだわっていられないと思います。
テレビチャンネルが限れられていた時代ならともかく、現在はCATVやスカパーのおかげで、あらゆる嗜好にあわせたチャンネルがあるのですから、ご自分に合った放送局を選べばいいだけのことだと思います。
「「許せる」「許せない」の基準」
許せるか許せないかはともかく、粋な題名かどうかで考えると、「ピタゴラスイッチ」以外は無粋なのは確かだと思います。
外来語を使ってしまいますが、一言で言うと「センスがない」。
センスある題名ならいいのですが、ただの下らない語呂合わせでは視聴者を惹き付けることは出来ないでしょうし、もっと単純に何に関する番組なのか判る題名を付けた方が視聴者のためにもなると思います。
日本語で「エンプロテック」と記述する会社を創設した人物として、このような内容の文章を書くことは、恥ずかしくないのでしょうか? また、ここで非難されているNHKの番組名の数々も、「日本語破壊協会」という言い回しも、私にとっては同じように下品に見えます。
”国家の品格”なる言葉自体、怪しげなと思われませんか。
格は人格、骨格、或は寺社格の如くに用いられるが、国家を品と看做して用いたとしたら筆者の僭越も甚だしい。
品位を疑う。
本稿の論旨に私は全面的に同意致します。
文化文明とは領土や人種(みてくれ)も重要ですが、同じ言葉をしゃべる、書くということがやはり最も重要だと思います。
我国でも旧字体を改めてから古文を解せなくなり、その情感の歴史的断絶が興りつつあります。
中川信博
旧字体復活論とか旧かなづかい復活論と、「最近の言葉は乱れている」論とは、ぜんぜん違う議論です。
前者は、国語審議会が日本語にはめた制限が、日本語の表現を不自由にしているから、もっと自由を与えてくれという議論で、それは確かに聴くべきところがあります。
後者は逆で、聞きなれない、特定の表現を拒絶するものです。受け入れるか拒絶するかの基準が、「好き嫌い」以上でも以下でもないのだから、「ご自分の勝手にしてください」としか言いようがない。
本当の日本語とは、何なのでしょうか。
明治の時代に用いられている日本語のかなりの部分が、漢籍や仏典等からの借用で成り立っているのではないのでしょうか。それが、欧米に変わって何が悪いのでしょうか。
生物等の学名をラテン語で付けるのは、ラテン語は日常生活で使われていない言葉だから、変化しない故であると聞きました。日常的に使っている言葉は変化するものであり、その変化を嘆くのは、単なる守旧派に属しているからではないのでしょうか。
いつの時代も新しい波を、「堕落」と嘆くのは年寄りだけであり、その年寄りがこの世を去っても、新しい波は次の新しい波を呼び寄せ、その時代の日本語を作っています。
しかし、日本テレビで40年続く「笑点」をNHKだと言うのには笑いました。
いつから始まったかは知りませんが、英語やカタカナを不自然な形で部分的に使用する傾向がマスコミにはありますよね。私も以前から気になっていました。番組名くらいなら許せますが、例えばシーリング等、政治経済用語を不自然な英語で報道するのは、報道機関としてあってはならない姿勢だと感じます。
私としては、NHKは民放各局と異なり、違和感のない日本語を話してくれるので、安心して見ることができます。話し方の訓練を受けていない芸能人が幅を利かす民放各局こそ、日本語破壊局だと思います。
似たところでは、新聞記者が何でもかんでも省略しようとするのが非常に気になります。略字で3文字削り句点の後ろに5マス空く、という目を覆いたくなるような紙面を度々見かけます。新聞を教材にしようという意見を耳にしますが、反面教師にするなら賛成です。
さてさて、北村さんの文章を明治の知識人達が読むとどう感じるか、想像してみると頬が弛んでしまいます。
そもそも、北村さんは、どうして旧カナを使わないんでしょうか?
旧字はOSによって表示できないことがあるので、Webで使うに躊躇するのはわからないでもありませんが、旧カナはWebでも何ら問題ありません。
1000年以上の伝統がある由緒正しい旧カナを使わず、占領軍の影響の下で、わずか数年で、性急に制定された新カナを使って平然としている人が、「日本語」を大切にする人とは、私には思えません。
”新カナはOKだけど、カタカナ語はダメ?”
ずいぶんと狭いストライクゾーンですねえ。