―統治とは―
「戦略的思考と憲法九条」、「情報戦略も見直しを」でそてぞれの概念を概観しまして、その視点から我国の現状の問題点を指摘致しました。―はなはだ不完全ですが―そしてその原因をハード(組織)、ソフト(仕組み)にあるということ指摘させて頂き、それを構成する諸概念―知識もしくはその解釈や理解―が充分に教育、理解されていないことに問題があると提示させて致しました。特に戦略の項では「政策」と「戦略」という概念について、情報の項では「カスタマー」と「情報サイド」の関係及び「カスタマー」となるための条件などを取り上げまして、現状の政府、官僚機構が機能不全に陥っている遠因を示しました。
さて本論は、私達人類が最低限の健康と安全と豊かさを享受する為に、最低限の地域を支配確保して、政府を組織致しますとき、現代では憲法を制定して法の支配を受け―あるいは独裁で―、秩序を確立します。そしてその仕組みの根源を「統治」と致しましたとき、その統治について考えてみたいと思います。
―コンピュータとは?―
ハード機器としての「コンピュータ本体」とはなにか?という問いに正確に答えられる人は、コンピュータ関連企業に従事している人でも、なかなかではいないと思います。おそらくその答えは「マザーボード」ではないでしょうか。そのマザーボードからは、CPUさえもデバイス(周辺機器)なのです。
マザーボードはデバイスを認識して、OSが提供するGUIの手助けをうけて、私たちユーザーはアプリケーションを利用しています。じつはこの答えは不充分なのです。「デバイスを認識して」という何気ないところに、実は非常に重要な働きをするプログラムの存在を忘れがちなのです。
この働きをするプログラムを「BIOS」(Basic Input/Output System)と呼んでいます。実はこのシステムがなければコンピュータはただの箱なのです。―箱というよりは部品といってもよいと思います―この数百キロバイドのプログラムがコンピュータをコンピュータたらしめているといっても過言ではありません。マザーボードがBIOSを使ってデバイスを「統治」しているともいえないでしょうか。その恩恵で私達は日々インターネットを始めITリソースを活用させて頂いているともいえます。
―イギリスにおける統治の概念―
統治を考えるにあたり非常に参考になるの本がエドマンド・バークの「フランス革命の省察」です。これはバークがフランス革命直後にフランスの友人宛にしたためた手紙を「フランス革命の省察」として出版しました。バークはこの本の中で、フランスの友人に現在起きている革命が、イギリスをはじめヨーロッパが発展させてきた、自由主義社会を破壊するものであると激しく批難しています。貴族や教会の財産をいかなる法に依拠して没収したのか、彼らの名誉はいかなる権利で剥奪されたのか、それまでの統治を否定、抹殺する根拠、権利はいかなるものか、などをあるときはやさしく、あるときは激しくこの友人へ問いかけております。
バークは自由、名誉、財産の各権利を緩やかに発展させてきたヨーロッパへの挑戦とまで表現しています。そして特に統治への挑戦だと、国王をギロチンにかけた共和国政府へ対してはまったく容赦がありません。―バークは「パリ共和国」と革命政府を表現しております。このあたりの感覚は我国のそれと大きく異なるところです。現在の地方分権論がヨーロッパのそれとまったく違う証左でしょう―バークは過去から継承されてきた財産を擁護してそれを子孫に残していく権利―財産、名誉、自由など―の不可侵性を友人に繰り返し述べております。
―物理学の4つの力―
私は「統治」を書こうとした時、なぜかBIOSのことが頭に浮かびました。マイケル・ポランニーの「tacit knowing」というわけではないでしょうが、BIOSと統治の類似性を書こうと思ったのです。BIOSも統治もその恩恵を受けている人々が強くそれを意識することはないでしょう。それは秩序の根源ともいえます。BIOSはデバイスを認識すると共に仲間にします。BIOSの存在なくしてコンピュータはその機能を発揮できないどころか部品の塊となります。
もう一つこの統治を考える時に浮かんだのが物理学の4つの力―基本相互作用―です。物理学の書籍としては空前のベストセラーとなった、リサ・ランドール博士の「ワープする宇宙―5次元空間のなぞを解く―」を参考に致せば、4つの力とは弱い力、強い力、電磁気力、重力で、これらの力は素粒子の間で働く相互作用で、重力以外は次元を超えず作用し、それぞれ異なるケージ粒子に伝達される力のことです。特に重力を除く3つの力を大統一理論として、記述する試みが進行中です。
これらの力の作用を私たちは認識することは出来ませんが、その恩恵を受けていることはアプリオリといえるでしょう。ランドール博士はこれらの力は智情意があるごとく振る舞い、その力がどこから作用しているかはまだ解明されていないといいます。さらにこれらの力の作用がなければ素粒子間の安定が崩されて、物質の安定に影響がある、すなわちすこし強引に解釈すれば物質の秩序の崩壊、言い換えれば私達の存在が失われる可能性があるということです。
人間社会の統治も同じようなことではないかと思います。私たちは私たちが安定して生活している、秩序の根源であります統治の実態を認識することはなかなかないと思います。しかしその目に見えず、肌で感じることが出来ないものが、実は根源的にその存在を支えているということは「BIOS」や「4つの力」と同様に重要なのではないかと思います。
―ミカド主義とは―
W・E・グリフィスはその著書「ミカド―日本の内なる力―」で我国の統治について「ミカド主義」という言葉で説明しています。グリフィスの「ミカド主義」を私なりに解釈いたせば、日本人は「天皇(スメラミコト)」の統治を受け入れているのではなく、すでに「ミカド主義」が日本人の根底に作用していて、そのシンボルとして「天皇(スメラミコト)」が存在していると述べています。
またアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトはその著書「菊と刀」で日本人にとっての国家神道は米国にとっての星条旗と同じ意味を持つと解説しています。アメリカ人にとっての星条旗は国家国民統一とそのシンボルであり、星条旗に対し敬意を表することはその意義を受け入れ、その統治を受けいえることだといえます。
アメリカで生活していた友人に聞きますと、小学校では月に一回程度、国旗に敬意を表し、敬礼の仕方から国旗国歌の意義などをその学年が理解が理解が出来るようにしているそうです。―南部の州だったと思います。州によっては違いがあるとは思いますが。ワールドカップのときなど多くの国が国旗掲揚と国歌斉唱のときは同じ姿勢をとっています。それは国旗国歌への姿勢を学校できちっと教えているか、社会が教えているのではないかとと思います―
―二大政党制に統治の変更はありえない―
世界には様々な統治の形があります。民族、宗教、人間の崇高な精神、伝統、…、人は緩やかな見えない作用で結ばれて―その運命を受け入れて―国家を形成しています。国家観というものは統治に関する考え方だとも思います。国家の運営者たる政府は統治に関する姿勢を示さなければならないと思います。現在受け入れている統治下で運営をするのか、そうではなく新たなる枠組みで新たなる国家を形成するのか。しかし現実は統治の変更は暴力で行なわれます。先出のフランス革命、ロシア革命、イスラム革命は政体変更ではなく統治体の変更だといえます。
二大政党制では統治体の変更がないことが大前提だと思います。二大政党制は統治体を受け入れた上での政策民主主義でなければならないと思います。アメリカの共和党と民主党の連邦に対するスタンスは大きく違いますが、「自由」「平等」や星条旗への変更は考えられませんし、アメリカ国民は許さないと思います。
戦後、我国の自民党と社会党のような統治体変更を伴う政権争いであれば国民の選択は―自民党に不満は多いにありましたが―自民党でした。国民は社会主義革命を標榜する社会党への権力委託を拒否してきました。社会党が社会主義革命を実現を放棄して、連立を組みましたとき、国民は受け入れました。この事実は国民が我国の統治へ対する破壊者を拒否した姿勢としてある意味画期的なことだと思います。政策が右か左かではなく、統治にコミットすることが国民の選択の重要な用件であることの証左といえないでしょうか。
今回の選挙で民主党は「政権交代」をイシューとして現在選挙戦を戦っておりますが、民主党が我国の統治体制にコミットしているかどうかは疑わしいと思います。各地で開かれる講演会、党大会でまったく国旗を掲揚せず、国歌斉唱も行なわれていません。政権を担う政党の姿勢として如何なものかと思います。
もし統治体の変更をもともなう政権交代なのではあれば、民主党はそのことを国民に政策の中心として伝えるべきだと思いますが、国家転覆をたくらむのであればそのようなことを詳らかには「戦略的」にしないでしょう。―当然です―
たとえば民主党は「地方主権」というような文言を使用していますが、これは明らかに「地方分権」とは違う概念をいっているのではないでしょうか。これは法人としての「国家」の主権とは別に「地方自治体」が主権を行使することが出来るようにすると受け取られても仕方がありませんと思いますがいかがでしょうか。
私達は今回の総選挙のイシューは「政権交代」ではなく、もしかしたら主権の移譲をも含む「統治体交代」ではないかという認識をもたなけてばならないのかもしれません。
追記
>政策中心<へ政策の中心と「の」を追加
H21.8.25 22:04
コメント
>マザーボードがBIOSを使ってデバイスを「統治」しているともいえないでしょうか
全体としては面白いアイデアですが、上記は誤解があると思います。そもそもマザーボード(ハードウェア)は頭脳ではないので、「統治」はできないのではないでしょうか。
またBIOSは神経にたとえれば末端神経です。現在のPC系マザーボードにおけるBIOSの役目はレガシー周辺機器の互換性保持という役割が大きいでしょう。マルチタスクOSではデバイスドライバBIOSを飛び越えてハードを直接制御している場合が少なくありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/BIOS
中川です。
ご指摘誠に有難うございます。
比較にやや無理があることを認識しておりましたが、自然界の根本原理と人間が作り出したアーキテクチャーが似かよっていることを表現しようと思いました。
やや不正確なことをお詫びします。
中川さんの戦略の記事は興味深く読ませて頂いております。
>戦略とは政策があってはじめて機能する概念です。
上記の意味は、はじめに目的があり、長期的視野、複合思考(wikiより)により目標に到達する為の手段(あるいは作戦)と理解しました。
もしこの理解で問題ない場合、日本の政治家の問題は、政策の前にある目的であるところの、「日本をどのような国にしたいか」という明確なビジョンが欠けている事が問題ではないかと思う次第です。その為に、同じ政治家の口から、選挙の度に異なる「政策」が飛び出てくるのではないでしょうか。
>. bobby2009さん
中川です。
企業に起業の精神があるように、国家にもそれがあります。
アメリカなどはわかりやすいですが、日本には「八紘為宇」があります。「八紘一宇」は田中智学が考えた造語でたぶんに日蓮宗による統一的思想が見え隠れしますが、「八紘為宇」はそんなことなく、ただ客観的に「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)といったのみです。
日本のグランドデザインはこれです。
三菱は岩崎弥太郎、ホンダは本田宗一郎、出光は出光佐助というように何十年たとうが創業の理念は変更できないのです。
>日本には「八紘為宇」があります。
日本の政策のもとになる目標について、中川さんが上記を示す事は、いろいろな意味で誤解を生むもとになるので、もっと具体的な別の表現をされた方が良いのではと考えます。
政治家にとってあるべき日本のビジョンとは、たとえば内政的には道州制による分散型地方自治をもって各道州が自らの政治と経済と福祉を自主的に維持・発展させようとする社会であるとか、外交的にはグローバリゼーションが進む社会の中で、アジア諸国の一員として積極的な経済圏を構築する国になるとか、選挙民が容易の理解・共有できる具体的なものであるべきかと思います。
そういう意味において、中川さんは、日本がどのような国になるべきであるとお考えでしょうか。
>bobby2009さん
中川です。
>日本の政策のもとになる目標について、中川さんが上記を示す事は、いろいろな意味で誤解を生むもとになるので、もっと具体的な別の表現をされた方が良いのではと考えます。
おっしゃる通り誤解をうんでいます。八紘為宇というと皆戦前の軍国主義を連想してしまうのでしょう。しかし建国の精神はこれだという認識は少なくとも保守主義を標榜する人たちには持って欲しいと思います。
バークはフランス革命の省察で伝統から切り離された「個」の人権思想を痛烈に批判しました。人は伝統から切り離されて生まれてきたわけではないと思います。
イギリスでは建国からの伝統を重んじ、民主主義を育てた歴史は保守主義者の誇りです。アメリカでは建国の精神を2つの方法で実現させるべく共和党と民主党が交代で政権を担います。
一方我国といえば保守主義を標榜する人でさえ建国の精神を「否定」してしまっています。連続する伝統を重んぜす、その場しのぎの政策しか提案できないのでは保守主義とはいえないと思っています。まず日本の建国の精神を認識することが重要だと思っています。
オバマ大統領が「チェンジ」と叫んでも、それは国旗や建国の精神を「チェンジ」することではないと思いますし、合衆国国民もそれを支持したわけではないと思います。
>そういう意味において、中川さんは、日本がどのような国になるべきであるとお考えでしょうか。
長くなりますので本論で書きたいと思います。
>まず日本の建国の精神を認識することが重要
日本の建国もまた、正確に理解しようとするとなかなか難しい問題ではないでしょうか。
wikiで建国記念日と引くと、「例えば日本では記紀神話中で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年2月11日)である」とあります。同じくwikiで神武天皇を引くと、「神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない」とあります。これを建国ととらえる場合に、建国の精神が書かれているのは古事記や日本書紀ということになるのでしょうか。
現代の日本政府は、その連続性から言って、明治維新から始まったと考える事ができます。その場合、五箇条の御誓文がその建国の精神という事になるのでしょうか。
GHQによって作られた日本国憲法が発足した日を建国ととらえる場合、建国の精神とは、日本国憲法という事になるのでしょうか。
中川さんの言われる「建国の精神」とは、正確には何を指しているか、説明頂く事はできますでしょうか。
建国の精神を真面目に論じようとするのであれば、私の個人的な意見としては、五箇条の御誓文あるいは日本国憲法が、現代日本の建国の精神として相応しいのではないかと考えます。
>長くなりますので本論で書きたいと思います。
楽しみにしております。