樹木葬のこと - 松本徹三

松本 徹三

私事で恐縮ですが、私の家には、岩手県一関市の知勝院というお寺から、「樹木に吹く風(花に生まれ変わる仏たち)」と題するニュースレターが定期的に送られてきます。何故かと言えば、この知勝院の管理する里山に、私の遺骨が先々埋められることになっているからです。


もう今から六年以上も前のことになりますが、私はこのお寺の住職である千坂げんぽうという方が、「北上川流域の美しい里山を、『樹木葬』という新しい形の埋葬の場所として利用することによって保全する」ということを考えておられることを知りました。この考えに大いに共鳴した私は、岩手県には何の縁故もありませんでしたが、すぐに現地の見学会に参加し、その場で10万円〔当時〕の手付金を払って、私自身の墓所にすることを決めたのです。

契約すると、笹や藪を間伐して整備された里山の中の随所に点在する直径1メートル程の割り当て場所に、遺骨を5人分まで、直接〔骨壷などに入れず〕埋葬することが認められ、そこには低い潅木が一本植えられることになります。埋葬希望者は宗教の如何を問わず申し込むことが出来、利用料も格安です。

私は、長い間、宗教というものをよく理解しようという意欲は持ってきたのですが、結局のところ、かなり確信的な無神論者になっており、今後とも恐らく変わることはないと思っています。そんな私が、死んだ後だけに、あたかも生前からずっと仏教徒だったかの如く、お経を上げてもらったり、仏壇を作ってもらったりするのは、フェアでないと思ってきました。

(ちなみに、少し哲学的な話になりますが、私が「無神論者」と呼ぶのは、「『誰も自分を常に見守ってくれていなどはしない』という淋しくも厳しい『真実』を、覚悟を持って受け入れる人間」のことです。)

更に、もし私個人の為に石造りの墓標が作られたりしたら、それは私の地球についての思いにも反することになります。そもそも、人は次々に生まれ、次々に死んでいくのに、死んだ人の骨を瀬戸物の骨壷に入れて埋め、そこに一つ一つ石造りの墓標を立てていたら、そのうちに地球は骨壷と墓標だらけになってしまう理屈になります。

人は何もないところから生まれ、それぞれに何となく精一杯生きていくのですから、死んだ後は土に帰り、何も残さないのが一番自然です。(私の骨の中に残された僅かばかりの燐酸が、その上に植えられた小さな潅木の栄養になってくれたら、それはそれで更に嬉しいことですが…。)

私の戒名などを刻んだ墓標は、子供達や孫達の代までは何らかの意味を持つかもしれませんが、その後の人達にとっては殆ど意味不明のものになるでしょう。そういうものは残す必要もないし、残したくもないと思っています。子供達や孫達にも、わざわざ墓参りに来てくれるよりは、どこか便利な場所に集まって、今は亡き私のことを肴にして一杯飲んでもらった方が、ずっと嬉しいとも思っています。(その点、遠い岩手県の漠とした里山に埋められてしまったら、もう何がなんだか分からなくなって、子供達も墓参りの心配をしないで済みます。)

勿論、こんな私とは大いに違う考えを持った人達は、たくさんおられることでしょう。その人達は、勿論その人達の信念に基づいてお墓を作られるのが当然であり、どんなに大きなお墓を作られても、私には全く異議はありません。

埒もない話のついでに、私の家に一緒に住んでいるパートナー(つまりカミさん)のことを付け加えると、彼女も私とは大いに考えの違うところがある人間の一人です。彼女は40代の後半になって色々な悩み事をもち、自ら洗礼を受けた真面目なカトリック教徒ですから、このような私の墓所の決め方にもあまり賛成ではなかったのは当然です。ですから、一緒に岩手県には行ってくれたものの、私が里山を歩きながら、「ここがいいかな? いや、むこうの方が日当たりがよさそうだな。あんたはどう思う?」等と言いながら、自分の埋められる場所を一生懸命選んでいるのを見ても、「勝手にしたら」と冷ややかでした。

(尤も、幸いにして、最近になって彼女にも心境の変化があったらしく、「一緒に埋まってあげてもいいよ」と言ってくれたので、「彼女の墓所はどうすればよいのか」という私の当面の最大の心配はなくなりました。)

そうこうしているうちに、私もとうとう70歳になってしまいましたが、墓所も決まっているので、何となく気が楽です。人間は必ず死ぬものだということは、誰もが知っていることなのですが、墓所を決めて、そこの景色のことなどが、時折ニュースレターで送られてくると、あらためてこのことを明確に意識し直すことになり、それは大変よいことだと思っています。

「70歳にもなって何故まだ働いているのか?」ということは、時々自問しています。年寄りが働く場合は、「それが若い人の働く場を塞いでしまっているのではないか」ということをいつも自戒しておく必要がありますから…。具体的にいうなら、「これまでの経験が非常に役に立つ」分野の仕事や、衰えていく基本的な能力を補うに足るだけの「十分な意欲」をもてる仕事以外は、しない方が良いのです。

私も、若い時には、「まだ誰もやっていないことをやりたい」という強い意欲があり、「誰にも負けたくない」という気持もありました。その為に、高揚と失意がかわるがわるに訪れ、殆ど息を抜く暇もありませんでした。

しかし、60代の前半に、それまでの様々な経験をも超えるような極度の緊張を感じる仕事を一つこなし、同時に身体が老境を感じ始めたその時からは、「自分に残された限られた時間内に、何か自分がやるべき仕事はあるか」ということだけを、淡々と考えるようになりました。お金や名誉は、既に興味の外です。

当初は、「カリフォルニアに移り住んで、グローバルレベルでのデジタルデバイドを解消するのに役立つような仕事をしたい」ということを漠然と考えていましたが、結局は孫正義さんのお誘いを受けいれて、ソフトバンクの仕事の手伝いをすることになりました。

孫さんには毀誉褒貶もありましょうが、「何とかして世の中をよい方向に変えたい」と本気で純粋に考えている人であることは間違いないし、稀代の行動力を持った人ですから、私としては、「自分では到底出来なかったようなことも、彼なら或いは実現してくれるかもしれない」という期待を持っているわけです。

私としては、会社が給料を払ってくれている限りは、会社の利益になることで私に出来ることがあれば、何でもやらなければならないのは当然ですが、現在の私自身の目標は単純に二つのことに絞られています。

一つは、ICT(情報通信)の力で、日本を少しでもよい方向に変えることです。(今「NTTのあり方」について騒ぎ立てているのも、この一環に他なりません。)そして、もう一つは、世界の中で、日本人がもう少し理解され、頼りにされるようにすることです。(現状は寂しすぎますし、その傾向が益々強くなりつつあるのが気がかりです。)率直に言って、すべては、この国に住む自分の子供達や孫達とその隣人達の為であり、会社の利益は二の次です

岩手県の里山に埋葬されて、一本の潅木に姿を変えるまでに、もうあまり時間は残っていないとは思いますが、せいぜい頑張ってみたいと思っています。

松本徹三