成長戦略と労働生産性--池尾和人

池尾 和人

マンキューのいう経済学の10大原理の1つに
  (8)一国の生活水準は、財・サービスの生産能力に依存している
というものがある。すなわち、(少なくとも物的な意味での)豊かさは、人口一人あたりの産出量で決まるということである。

人口一人あたりの産出量=労働者一人当たりの産出量×(労働人口/総人口)であるが、労働人口/総人口は労働力化率と呼ばれる。とりあえず労働力化率を所与とすると、労働者一人当たりの産出量(即ち、労働生産性)の大きさが、その国の(少なくとも物的な意味での)豊かさを決めることになる。


そこで、労働生産性をyと書くことにすると、
  y=A・f(k)
のような関係を想定することができる。ここでkは、労働者一人当たりの物的資本の量(即ち、資本装備率) であり、f(k)は、kが増えると増加するが、その増え方は低減するような関数である。

要するに、労働生産性の世界各国や各時代における大きな違いは、資本装備率の違いによるところがある。資本蓄積が進んでいて、労働者一人当たりの物的資本の量が大きい国の方が労働生産性が高くなるといえる。しかし、労働生産性の差のうち、資本装備率の違いっで説明できるのは、その約1/3に過ぎない。

残りの約2/3は、上の式でAと書いた係数の差に起因する。この係数は、全要素生産性(TFP)と呼ばれているが、その正体はよく分かっていない。ところが、こちらの方が労働生産性の決定要因としてより重要なのである。

最近「成長戦略」という言葉がよく使われるようになったけれども、その意味はいま一つ不明確である。しかし、あえていうならば、このAの値を向上させるための包括的で一貫性のある計画を意味するものとして、成長戦略という言葉は理解できよう。

成長会計として知られているように、経済成長率は、定義的に、労働投入量の増加率と資本投入量の増加率の加重平均にAの増加率を加えたものである。したがって、前者の労働や資本の投入量を増やして成長を図るという途も考えられないわけではないが、いまの日本では現実関連的ではない(もちろん、大量の移民労働力を導入するというようなことを考えるならば、話は別である)。現状で成長促進として意味のあるのは、後者のAの改善である。

しかし、既述のようにAの正体はよく分かっていないので、政府が意図して影響を与えることが出来るかどうかについて、確定的に述べられることはあまり多くない。すなわち、成長戦略が求められているという声は多いが、意味のある成長戦略の立案はきわめて困難な作業だと考えられる。この意味で、政府に成長戦略を求めるというのは、実は無い物ねだりに近い話かもしれない。

とりあえず、最近の経済学で、Aの値に影響を与える要因として注目されているのは、
(1)人的資本の質
(2)研究開発投資、無形資産投資
(3)制度環境、文化
といったものである。

同じ時間の労働でも、熟練した労働者が働いた場合と、未熟練の労働者が働いた場合では、当然に成果が違ってくる。同様に、国民の多くが高い水準の教育を受けている国と識字率が5割にも達しないような国では、労働力の質に違いがあり、そのことを反映してAの値が違ってくると考えられる。これが、(1)の話である。

すると、教育に力を入れることによって、労働生産性を改善できる可能性があることになる。自国の生産フロンティアが世界の先端のそれよりも遅れている(発展途上の)段階では、輸入技術を受容し活用できる能力を高めることが肝要なので、初等中等教育に重点的に投資を行うことが望ましい。アマルティア・センは、日本がまだまだ貧しかった頃から義務教育の実施などに優先的に資源を割いてきたことを賞賛しているけれども、そのことは成長戦略としても正しかったということができる。

しかし、自国の生産フロンティアが世界の先端のそれにほぼ近接した(先進国化した)段階では、独自の開発能力を高めることが不可欠になる。この場合に、投資の重点を初等中等教育から大学院教育といった面にシフトとさせていくことが成長戦略上必要になるが、このことには、いまのところの日本は失敗しているといわざるを得ない。逆にいうと、この部分の失敗を是正する方策を講じることは、成長戦略たり得ると考えられる。

長くなりすぎるので、(2)と(3)に関わる話は、別の機会に留保したい。今日の段階で確認してもらいたいのは、何らかの形で(直接的ではなく、間接的でもいいから)Aの値を高め、一国の労働生産性の向上につながるようなようなものでなければ、成長戦略として意味がないということである。

そうであれば、一国の労働生産性を向上させるにはどうすればよいかという観点から発想して成長戦略を構想するのが近道なのではないだろうか。

コメント

  1. eco_and_sport より:

    同感です。とても腑に落ちる論理展開だと思いました。
    以下のように理解しました。

    ・「成長戦略」の構図はその取り組みの目的を「一国の労働生産性の向上のため」として、
    ・「(3)制度環境、文化」の構想を策定し、
    ・その達成経路として「(2)研究開発投資、無形資産投資」を機会(場)に、
    ・「(1)人的資本の質」の強化(教育)を行う。

    成長戦略の実施は、複雑なプログラムマネジメントが求められます。目的を達成するためにも無数にあるプロジェクト間で共通する理解の醸成が不可欠です。計画通りいきませんから調整委機能を重視する必要があります。池尾氏の論点を押さえるような国の発表を期待したいと思います。

  2. eco_and_sport より:

    「(3)制度環境、文化」の構想は、これからの「生活様式」の構想であろうと思います。

    優れた企業は「ターゲット客」の「生活様式」を基点に商品やサービスを設計しています。もっと言えば、そのために「組織」を設計しています。
    (間違った企業は、自社の既存の組織の枠組みで物事をとらえ、また、既存の枠組みで商品やサービスを設計しています。)

    国家の場合、この「ターゲット客」は国民ですが、企業と異なり、選別することは許されないでしょうから、多様性が求められることになると思います。または、何かしらの政策によって多様性を収束させる必要があるのだと思います。

    柔軟性があり、軸となる「(3)制度環境、文化」の構想の質が、これからの日本を決めるのではないかと思います。
    日本の「組織」いじりも必要となると思います。

  3. eco_and_sport より:

    スパコンの議論が盛り上がっています。
    池尾氏の議論では、それは「(2)研究開発投資、無形資産投資」に該当すると思います。

    「(2)研究開発投資、無形資産投資」と「(1)人的資本の質」は目的を達成する上での目標にすぎません。
    ですから、その目標は目的を達成できることを前提に、合理的に柔軟にとらえるべき対象だと思います。

    論点は、スパコン研究開発の場(「(2)研究開発投資、無形資産投資」)を国が提供せずとも、目的が達成できるのか?
    だと思います。
    現在、国の成長戦略がないまま、この議論をすることは、各人の暗黙の理解(期待)によるものになり、収束は難しいと思います。

  4. eco_and_sport より:

    私は池尾氏の前に投稿された池田氏の論考に同感なのですが、スパコン賛成です。
    その理由は、どのような成長戦略であろうともコンピューターの処理能力の向上は不可欠であり、日本の産業を理解するうえで、その競争から外れる選択肢はないであろうという考えからです。中止に反対なのです。そして、現在の企業の経営環境を含めた競争力、国家という概念を基点にすれば、”場”(「(2)研究開発投資、無形資産投資」)を代替することが”現状”では無理だと考えるからです。実現手段があるのであれば民間でできることが望ましいと思います。

    スパコン研究開発プロジェクト単体でROIを求めるのも無理があると思います。ROIは成長戦略というプログラム全体でポートフォリオしてとらえるべきだと思います。1200億は高額です。妥当性評価は別に取り組むべきでしょうが、これが現在の日本の費用競争力の実態だと受け止めるしかないのではないでしょうか。

  5. eco_and_sport より:

    ・国内のコンピューター関連企業が規模ではなく、本質的に競争力をつけるようになる
    ・成長戦略が国家の枠組みを超え、多国間で共有できるようになる
    ・国家という枠組みが今よりももっとゆるいものになる

    時代が変われば今とは違った投資(場の提供)の在り方が選択肢としてでてくると思います。

  6. shlife より:

    個人的に直感と一致するご意見でした。
    「政府に成長戦略を求めるというのは、実は無い物ねだりに近い話」は、都合のよい甘い話は無い という意味と解釈しました。

    サッカーの野球のチームプレイに見られるように、個々の技術を磨いて、戦術的に取組めば、競争力がつきます。

    多くのオプションプレイが可能なチーム ジャパンと成長してもらいたいです。

  7. shitofheaven より:

    経済学は全くの素人ですが、たいへん参考になりました。ところで、下記のような素人考えはいかがでしょうか。潜在需要メニューと供給メニュー(資本メニュー)のマッチングがAの値に大きな影響を与え、マッチングの程度が高いほどAの値が大きくなる。多財・多市場のマクロモデルを用いて平易に解説いただければ幸甚です。

  8. eco_and_sport より:

    スポーツのチームプレイの喩えは納得しました。

    サッカーや野球のルールや運営に関してはトップダウンですが、各チームや選手はボトムアップで価値を競う。

    価値を高めるためにも、柔軟性のある”場”を提供する必要がり、ボトムアップの状況をみながら、ルールや運営を最適化しつづける。そのような調整機能をトップダウンで行う必要があると思います。

    計画経済ではなく、多様性を育む、市場の規制の見直し、市場の提供までが、成長戦略の範囲ではないでしょうか。

    ボトムアップ機能は優れたトップダウン機能なしでは機能しませんから。

  9. eco_and_sport より:

    成長戦略の効果は現在のボトルネックの解消により期待できるものですから、市場より先にある、各世帯や企業が生活様式や慣習をそれぞれが考え見直すような流れ(働き)をつくることでしょうか。それにより市場がつくられるのかもしれません。

    「言語技術」が日本のサッカーを変える (光文社新書)

    という本がありましたね。

  10. takarayui より:

    僕は、いわゆるIT業界に身をおいていますが、いまの日本で一番
    頑張らないといけないのはIT業界、特にソフト開発だと思います。
    ソフト開発は、ほぼ100%人件費なのでリスクは低いです。
    逆に当たればリターンは大きい。ローリスク・ハイリターンの業種です。

    PCもネットもこれだけ普及しましたが、いまだに手作業でデータ
    入力しているような中小企業はいっぱいあります。
    ソフトの作り方によっては、それまで1日かかっていた仕事を
    半日以下で仕上げることも簡単なことです。

    ITゼネコンと言われるような、労働生産性向上に寄与しない仕事はやめて、
    そういった企業のために安価なソフトをどんどん開発していくべきだと思います。

  11. ismaelx より:

    前から言われてることですが、大学に卒業試験を導入して、落ちたら卒業させないとかはどうでしょう。

  12. 海馬1/2 より:

    >ソフト開発は、ほぼ100%人件費なのでリスクは低いです。
    逆に当たればリターンは大きい。ローリスク・ハイリターンの業種です。

      デジタル土方・・・w

     製品完成後は、「版権」ビジネスなので、メンテナンス員以外解雇。

  13. 海馬1/2 より:

    知的障害の方を、トランスファプレス機の前に立たせて置いた方が、
    大卒ホワイトカラーがパソコンで業務中に2ちゃんやってるより生産性が高い。