年末年始、実家に帰って「ふるさとはいいな」と思った人も多いでしょう。しかし1週間もいると都会が恋しくなって田舎の不便さがうとましくなり、都会に戻ると「やっぱり都会はいいな」と思うのではないでしょうか。室生犀星の有名な詩は、こう歌います:
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
これは望郷の歌のように思われていますが、最後まで読むと、実はその逆であることがわかります。ふるさとに帰りたいが、そこにはもう自分の居場所はないのだと断念し、都会に帰る歌なのです。私には、これが2010年の日本の心象風景を描いているように思えます。
正月から「派遣村」を訪れてホームレスの人々を激励した鳩山首相は、彼らに一時の安住の地を与えたつもりかもしれないが、きょうまでの派遣村イベントが終わると、彼らはまたつらい現実に戻らなければならない。終身雇用の古きよき日本が失われるのに対して、「市場原理主義」を憎んでキャンプで施しを行なうのは、偽のふるさとを彼らに与える政治的スタンドプレーです。
グローバル資本主義の中では、ふるさとにしがみつく人々はもう生きていくことができない。かつては公共事業によって仕事を与えることもできたが、もはやその資金も底をつきました。戦後60年以上にわたって、人々は富を求めてふるさとを捨て、荒れるにまかせてきたので、今から帰ろうとしても帰るところはないのです。
すべての価値が数値に還元されて「合理化」され、人々がつねに移動を強いられる社会は、人々を不安にします。雇用の流動性とは多くの人が職を失うことの婉曲話法であり、競争原理とは多くの企業が破綻することを意味します。10年以上にわたって自殺者が3万人を超える日本では、そうした不安がかつてなく高まっているのでしょう。
近代とはそういう「故郷喪失」の時代なのだ――というのが『啓蒙の弁証法』におけるアドルノのテーマでした。それは故郷の概念をよりどころにして存在論を構築しようとしたハイデガーに対する批判でしたが、より広くは近代合理主義がすべての価値を破壊するニヒリズムの契機を含んでいることの批判でもありました。それは多くの作家や哲学者が論じてきた近代社会の最大のパラドックスですが、私の知るかぎりこれを解決した人はいません。
ふるさとに戻れるものなら戻りたい人は多いでしょうが、残念ながらわれわれは退路を断ってしまったのです。走り続けることに疲れても、立ち止まった瞬間に倒れてしまう。犀星と同じように、望郷の思いは断ちがたくとも、都会に帰ってふたたび働き続けるしかないのでしょう。
コメント
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数年前に家族で都会から田舎に移住し、空き家を借りて生活するテレビ番組があった。農地を借り食糧はほぼ自給自足で、近所の人達の助けを借り、一月、5-10万円の生活費で子供達も自然の中で伸び伸びと暮らす様々な家族の風景が紹介されていた。誇張もあったのだろうが、それぞれの家族が幸福に暮らしていた。
現代の田舎の生活者の問題は、自らの選択でその地で暮らし、都会人が望むべくもない美しい山河、空気、静寂を毎日満喫しながら、更に都会の利便性をも要求する(しかも都会人の払った税金で)ことである。室生犀星も、現代の田舎の生活の実情を知れば喜んで農業で自給自足の暮らしを選ぶかもしれない。少なくとも都会のホームレスの生活に比べれば天国といってもよかろう。
不自然かつ不合理な地方へのばら撒きが徐々に撤廃され最適化が進むと、100年後ぐらいにはどうなるんでしょう?限界集落のような弱小市町村は消滅して、地方に巨大都市国家が林立するんでしょうか?
それともIT化と公共交通網が地方の不利をなくし、人口は分散していくんでしょうか?
個人的には道州制ぐらいの区分けで租税、社会保障システムを地方の実情にあった仕組みで構築しなおせば、より合理的な社会になる気がします。今の日本は均一化志向が強すぎます。
「杏っ子」を読むと室生犀星はけっこう明るい性格なのがわかります。 彼の故郷に対するおもいは、彼の不幸な出自によるものとおもいます。かれと親交のあった萩原朔太郎には、「帰郷」の詩があります。
心理学の本には、いはゆるアングロサクソンの文化の毒性といった記述によくであいます。このことについて、 ある英国人の心理学者についてたずねたところ、 そのとおり、 競争原理・効率主義などといったことをまともと信じて自滅する人たちが居る、 とのことでした。 米国人で、仕事が第一といったひとにはあったことがありません。 彼らの第一は家庭です。