日銀は日本経済を救えるか?

アゴラ編集部

慶應義塾大学大学院経営管理研究科准教授/小幡績

不況に陥っている日本経済に対して、日銀が無策であると、ことあるごとに批判される。ほとんどの経済学者、エコノミストは、日銀に対して批判的で、デフレを解消するために、穏やかなインフレを起こせと主張している。米国経済学者のポール・クルグマンが、日本は、リフレ政策、すなわち穏やかなインフレを意図的に起こす政策を採るべきだと90年代末に主張したのは有名であるし、これと同じような主張を日本の多くの学者が行っている。私は、これらの意見に反対である。なぜなら、インフレになっても、いいことは一つもないと考えるからである。


リフレ政策を主張する学者達の議論を整理しよう。インフレになると景気が良くなる理由は、まず、所得移転である。すなわち、お金を貸している人から、借金をしている人へ所得が移転する効果である。10億円を銀行から借りている企業は、インフレになり、価格水準が5%上がれば、収入も5%増えるのに、返すべき借金は名目どおり10億円なので、5%分、返しやすくなる。多くの企業は借金をしているから、設備投資などの需要を生み出す企業にお金が銀行から移転することになり、経済は活性化し、景気が良くなるという議論である。

第二のインフレのメリットは、同様に所得移転であり、今度の所得移転は、預金者から銀行へのものである。つまり、インフレになれば、それに連動して企業などへの名目の貸付金利を上げることができ、その一方で、預金金利は据え置くことが可能であるとすると、預金者が得られたはずの金利収入を銀行に移すことが出来る。

第三のメリットも、所得移転と言えないこともないが、これは日銀からの贈り物である。すなわち、インフレになっても、日銀が政策金利を据え置けば、すなわち現在であれば、名目短期金利をほぼゼロに据え置けば、インフレが3%なら、実質金利はマイナス3%となり、設備投資などへの刺激効果の余地が広がるからである。

第四のメリットは、1930年代の大恐慌のときにケインズが主張した雇用理論の流れを受けて、その後の経済学者たちが主張したことであるが、名目賃金の下方硬直性があるときに、実質賃金の引き下げを可能にする方法は、インフレしかないということである。労働組合の存在などの理由により、解雇や名目賃金の引き下げが難しいために、新規の雇用をしたくても出来ない企業が多く存在し、その結果多くの失業者があふれていたときに、実質賃金の引き下げが可能になれば、企業は雇用を増やし、失業が減少する。なぜなら、名目賃金が引き下げられなくても、企業が生産する製品の価格が上昇すれば、実質賃金の引き下げが実現するからである。これにより、失業が減少し、景気は回復するという議論である。

第五のメリットは、デフレスパイラルを防止するということである。これは、現在の日本経済について、想定されているメリットであり、現在のデフレが進行すれば、企業の売上が減り、それに応じて給料が下がり、その結果、人々が消費を減らし、その結果、モノの値段はますます下がり、この悪循環が継続し、経済は縮小し続ける恐れがあるということである。だから何としてもデフレをとめないといけない、ということである。

第六のメリットは、クルグマンが強く主張したことだが、インフレによって、駆け込み需要を促すというメカニズムである。このメカニズムは、消費税の駆け込み需要と似ている。つまり、ある高級自動車が、今年400万円で売っているが、デフレにより、毎年20万円ずつ値下がりを続けると見込まれれば、その値下がりが止まるまで、すなわち、一番安くなるところまで待とうという心理になる。だから買い控えが起こり、消費はますます縮小するのである。一方、インフレの場合は、たとえば、毎年20万円ずつ値上がりをするので、資産が十分にあって、いずれにせよ、この高級自動車を買いたいと思っている富裕層は、すぐ乗れて、しかも一番安い今買ってしまったほうがいいということになり、現在の消費が喚起される、という考え方である。

これらの議論は、すべて間違っているか、あるいは現在の日本経済には当てはまらない。

第一のメリット、借金に苦しんでいる企業が身軽になって、息を吹き返し、経済の活性化をもたらすのは、潜在的にその企業の製品に対して需要があるにもかかわらず、銀行がその企業を支援せずに、貸し出しの回収だけを考えている場合である。90年代末の日本の危機の場合には、この貸しはがしの問題は確かにあったが、現在は、需要そのものが不足しており、また企業は2003年までの危機において、債務を大幅に削減していたから、今、借金の負担だけが理由で苦しんでいる企業は少数派である。

第二のメリットは、預金者はお金を十分に持っているのに、消費せずに必要以上にお金を溜め込んでいるような場合に、銀行に所得移転をすることによって、銀行の財務を改善し、その結果、企業への貸し出しなども伸びてくることにより景気が回復するというロジックであるが、現在銀行は適当な融資先がなくて苦しんでいるので、銀行に財務的余裕が生まれても、それを内部留保し、資本を厚くするだけか、あるいは、融資するとしても、アジアなどの新興国への融資、投資に向かうと考えられ、日本の景気回復には貢献しない。

第三のメリットは、確かに存在するが、現在の実体経済への投資の減少は、将来の実需に対して悲観的であるために、設備投資などを手控えているのであって、投資の資金調達コストが下がっても、ほとんど実物投資は増えず、金融資産への投資が増えるだけであり、せいぜい金融資産バブル再来となるだけである。金融資産バブルは、必ずしも、実体経済の景気回復をもたらすとは限らず、一方、そのバブルが崩壊した場合には、実体経済が大きなダメージを受けるのは、まさに今経験していることであり、あえて金融資産バブルを政策的に起こすことはない。

第四のメリットは、伝統的には、マイルドなインフレを支持する最大の理由であり、解雇の難しい日本ではとりわけ重要であったが、現在の日本は大きく変わった。名目賃金の下落は簡単に起こるようになったのである。というより、我々はボーナスの激減、正規雇用から非正規雇用へのシフトなど、名目賃金の大幅な低下を目の当たりにしているのであり、これが大きな問題と一部の人々に思われているのである。したがって、現在の問題は賃金の下落を可能にすることではないので、このメリットも重要でない。

第五のメリットというか、デメリットの防止は、恐怖を煽るストーリーとして語られている部分もあり、かなり漠然とした議論であるので、反論も難しい面もあるが、これは、第六のメリットへの反論と一緒に考えたい。

第六のメリット、クルグマン理論であるが、これは明らかな誤りである。なぜなら、このインフレーション、高級自動車の5%での安定的な価格上昇により、この自動車への駆け込み需要が永遠に起こり続ける、そして、インフレというマクロ経済全体の現象が起これば、このメカニズムが経済全体でも同様に起こるという議論には、暗黙の前提が多数あり、その前提は成立し得ないからである。

クルグマン理論が暗黙に前提しているのは、第一に、賃金はインフレに完全に連動して上がり続けるということである。そうすれば、実質価格は同じであるから、いつ買ってもかまわないから、今買っておこうということになる。そして、もう一つの前提は、消費者は十分資産あるいは所得があるということである。

この二つの前提は、明らかに成り立たない。現在、インフレになり、企業の収益が多少上がったとして、企業はその分、賃金を上げてくれるだろうか。あり得ない。せいぜい雇用の確保優先で、解雇を減らすか、あるいは将来、解雇しなくて済むように今の利益を将来の雇用のためにためておくくらいである。そして、そのような殊勝な企業は少数派で、多くの企業は、増えた収益は、利益を増やすことだけにまわすのである。したがって、雇用回復なき企業の利益増加、株価上昇ということになるのである。

この結果、クルグマンが想定するような十分に裕福なお金持ちでない多くの勤労者は同行動するであろうか。モノの値段はインフレで上がるが、賃金は上がらない。つまり、実質賃金は下落し、実質生涯所得は低下し、生涯にわたる支出への予算制約はより厳しくなるのである。そして、日本経済の将来は、依然として不安であり、公的年金の将来の支給額や将来の消費税の増税などを考えると、さらに不安になってくる。したがって、現在見られるような国民上げての節約生活が、リーマンショックに対応する一時的なものから、生涯にわたるものになり、日本の消費者の大多数は、倹約家になり、インフレの元で、景気はさらに悪化するのである。

第五のポイント、デフレスパイラルの防止であるが、デフレにより企業の名目の収益が減少しようが、インフレによりそれが増加しようが、勤労者の実質賃金、実質生涯所得は減少するので、いずれにせよ、実質的な需要増加による、景気回復が起きないことには、ある程度まで、縮小均衡へ向かって経済が落ちていくから、これで経済を救えるわけではないのである。

以上のような理由により、私は、インフレにより、日本経済が良くなるとは全く思わない。そして、私がリフレ政策に反対する最大の理由は、ここでは議論できなかったが、モノのインフレを日銀が意図的に起こすことは不可能であることによる。この議論をすると、多くのリフレ論者は、究極的には、物価水準とは、モノとお金、つまりマネーの比率だから、マネーをじゃぶじゃぶに無限に増やしていけば、どこかでインフレが必ず起きる、たとえば、国民全員に日本銀行券を刷って渡せばよい、といういわゆるヘリコプターマネーの議論で反論する。しかし、これも、明らかに間違っている。なぜなら、将来が不安な中では、マネーをもらった場合に、それを消費するのではなく、将来への備えとしてとっておくはずであり、それは、金融資産(不動産を含む)への投資に他ならない。すなわち、インフレはモノの値段として起こるのではなく、資産インフレとして起こるのであり、まさに、金融バブルが起こるということであり、これはもともと金融資産を多く保有している人々が儲かるだけの話であり、国内的にも世界的にも、金融資本家や金融国家が儲かり、持たざるものはさらに貧しくなるだけのことである。

したがって、リフレ政策は最も採ってはならない金融政策なのである。

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コメント

  1. https://me.yahoo.co.jp/a/u540mrdbVIb5etvNTFCFUJ40iuo-#576de より:

     全体的に正しいご主張と理解しています。
     ただし、一箇所だけ引っかかりました。
     「ほとんどの経済学者」が穏やかなインフレを起こせと主張しているのは事実なんでしょうか。
     池田さんが主宰しているアゴラで、その前提は大胆不敵というか、最近の言葉ではKYというか、要するに池田さんは「ほとんどの経済学者」以外の方だったんですかねぇ。

  2. hogeihantai より:

    Mercer’s Cost of Living Surveyによると2008年の世界主要都市物価ランキングで東京は一位、大阪は二位である。ドル円の購買力平価(消費者物価基準)でみると、90年から短期間の例外を除き一貫して市場レートが購買力平価より円高で日本の物価高を裏づけている。その乖離は縮まって来ているが、昨年の11月でも10%以上ある。

    デフレで物価は下がっているが、依然として日本の物価は世界一高いのです。貿易が自由化され世界がボーダーレスになっている現在、日本の物価が先進国の標準値に近づいていくのは当然で、これを阻止しようという発想がおかしい。日本のデフレは物価が欧米と同じ水準になるまで続くと考えるべきではないでしょうか?衣食住の中で衣はユニクロなどの健闘で世界水準になったが、食と住はまだまだ高い。農業を自由化し土地の価格が下がるまで道はまだまだ遠いと思います。

  3. e_233 より:

    リーマンショックの影響で人々の購買力が低下した結果、企業は低い価格でモノを販売せざるを得なくなった。従って、作って売っても以前より利潤が出なくなったのである。

    リーマンショック→不況→購買力低下→モノの低価格化→企業の利潤減少→所得低下→購買力低下→→

    というように、一向にデフレ下にいざるを得なくなってしまうことから、インフレのメリットを説明することもできるだろう。

  4. hogeihantai より:

    最近テレビや雑誌で竹森俊平氏がデフレ対策について口角泡を飛ばして日銀を非難してます。同じ大学ですから小幡さんは、この問題について竹森氏や他の同僚と議論することはないのでしょうか?工学部出身の私には不思議でしょうがありません。日本の経済学のレベルの低さの原因はこういう大学の文化にあると思います。

    どちらかが間違っているわけですから、教わる学生がかわいそうだと思いませんか?竹森氏の試験の答案に小幡さんの説、小幡さんの試験の答案に竹森氏の説を書いたら、零点になるのですか?

    慶応の経済学部の教員を全員集めて公開討論会を開いたらどうですか?学生もどの先生の説が正しいか評価できますし普通の講義よりよっぽど面白いでしょう。教員も学生も、もっと勉強するようになる。テレビに放映させれば大学の収入になる。継続的にやれば経済学では慶応が日本一という評価が確立するかもしれない。福沢諭吉もさぞ喜ぶでしょう。是非、教授会に諮って下さい。反対するのは論破されるのを恐れる無能教授だけでしょう。