市民社会というフィクション - 『フーコー 生権力と統治性』

池田 信夫

★★★★★(評者)池田信夫

フーコー 生権力と統治性フーコー 生権力と統治性
著者:中山 元
販売元:河出書房新社
発売日:2010-03-17
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ミシェル・フーコーが死去してから四半世紀以上たつが、いまだに彼の全貌はよくわからない。彼の早世によって主著『性の歴史』が途絶し、日本では講義録の翻訳も止まっているため、彼の名はいまだに「構造主義」とか「人間の死」などのキャッチフレーズでしか知られていないが、著者も指摘するように、こうしたイメージは誤っている。

特にフーコーの中心テーマだった権力の問題については、彼の方針が二転三転し、まとまった著作を残さなかったため、早すぎた晩年の「空白の8年間」の講義やインタビューなどをたどらないと真意がよくわからない。本書はそれを未公刊の草稿まで渉猟し、あちこちに分散しているフーコーの(断片的で一貫していない)権力論を体系的にまとめた労作である。

フーコーといえば、「パノプティコン」のような国家権力に対峙する左翼的知識人というイメージがあるが、彼は晩年にはそういう監視装置として国家をとらえる方法論を放棄し、むしろ権力の根源には主体(sujet)の概念があると考えていた。これは語源的には君主に仕える「臣民」という意味だが、現代では能動的に行動する人間の意味である。このように意味が180度逆転したところに、民主主義の秘密がある。

西欧の国家が、文明的にははるかに進んでいた中国やイスラムをしのいだ最大の原因は、その軍事力だった。帝国の君主によって戦争のときだけ雇われる兵士(soldierの語源は「傭兵」)の士気は低く、戦闘になると逃げる兵士も多かった。これに対して近代国家では、財産権をもつ市民は自分の土地である国土を守る強いインセンティブをもつ。彼らは歩兵として積極的に戦争に参加し、規律・訓練によって殺人技術を発達させる。

かつては君主の命令によって<臣民>がいやいや行なっていた戦争が、戦意を内面化した<主体>によって進んで行なわれるようになったことが、戦争のテクノロジーにおける画期的なイノベーションだった。ひとしく「天賦の人権」を与えられた個人が自己の行為に責任をもつという市民社会の概念は、彼らを殺人機械として戦争に駆り立てるためのフィクションにすぎない。

しかし戦争が近代化するにつれて、軍事力の中核は兵士から補給に移る。もっとも多くの富を生産し維持できる国家が世界を征服するのだ。このためには、軍事的な規律・訓練よりも市民が自発的な取引によって富を増やす市場メカニズムが重要になる。このためには国家は後景に退いて「夜警国家」となり、人々の生活を保障する生政治が有効になる。かつて国家は戦争によって死をコントロールする装置だったが、現代ではそれは市民の生をコントロールするのだ。フーコーは、市民社会を次のように表現する:

人々は、大がかりな調教の体制ともいうべきものを作り上げたのだ。市民は自分自身を調教し、それにふさわしい個人の種類を作り出したのである。ある種の市民的自由主義が制度の次元で可能となるためには、私がミクロの権力と呼んでいる次元で[警察や司法などによって]個人をさらに厳重に包囲することが必要になった。規律というのは、民主主義のコインの裏側なのだ。

したがって個人は伝統的社会から切り離されて「人的資本」として市場で取引される一方、司法による規律が前面に出て、契約が市民を拘束する。このようなシステムが、西欧圏以外で反発を呼ぶのは当然だ。それは「自然な社会」ではなく、特殊西欧的な歴史によって形成されたフィクションだからである。しかし市民社会が全世界の人々の欲望を解放し、かつてない富を築いた今となっては、それを伝統的な君主国家に戻すことは思いもよらない。われわれは、この怪物を飼い慣らす術を学んでゆくしかないのだろう。

コメント

  1. marug3c6jgj より:

    インドや東洋のように訓練されたエリートによる精神性によって平和を実現しようとする試みが延々と失敗を繰り返してきた傍ら、略奪と殺戮をレトリック的に肯定した西欧という特殊な集団が、例の「約束を破る」メカニズムによって水平分業を生み出し、その圧倒的な生産効率を用いた「バラマキ」によってわずか数百年で平和が実現しようとしている。皮肉ですね。