きょうから「今日のコラム」を「OPINION」にバージョンアップして、執筆者も増やすことになりました(スケジュールは調整中)。
NHKの「無縁社会」というシリーズの番組が、反響を呼んでいる。ちょっと前の「ワーキングプア」の老人版という感じだが、ワーキングプアの実態がいかがわしいものだったのに対して、無縁社会は現代のかなり本質的な問題である。
無縁といっても、文字どおり親戚も友人もゼロという人はほとんどいない。故郷を離れてそういう縁が切れたり、本人がそういう束縛をきらっているというケースが多い。日本の場合は、都市で地域のコミュニティがほとんど機能しなくなったことも大きな原因だ。特に集合住宅では、隣の人の名前も知らないことも多く、老人が死んでから1週間も気づかれなかったといった事件も起こる。
これは日本の都市化が急速に進んで都市コミュニティが形成されなかった一方、会社という擬似コミュニティができたことも原因だろう。かつては町工場や企業城下町のような形で会社が地域コミュニティの核になっていたが、最近はグローバル化や雇用の非正規化で、それも失われた。かつて田舎の共同体を脱出することは、都会で自由と富を得ることを意味したが、いまこうした共同体を失うと、すべてを失ってしまう。今や日本には、家族より大きな単位のコミュニティがほとんどない。
このような状況を「市場原理主義」などと糾弾して、古きよき「国家の品格」を取り戻そうとする人々がいるが、彼らは具体的にどうしろというのだろうか。地方に公共事業をばらまいて雇用を維持する田中角栄以来の手法はもはや財政的に行きづまり、民主党政権がやろうとしている派遣労働の規制などは、失業を増やす以外の効果はない。
社会の流動性が高まり、伝統的な中間集団が失われるのは、資本主義の必然的な結果ともいえる。マルクスもハイエクもそれは避けられない傾向だと考え、フリードマンは地域や年齢に依存する福祉システムを廃止して、福祉を負の所得税のような所得再分配に一元化すべきだと主張した。これは効率性という観点からは合理的であり、現在の福祉がきわめて非効率かつ不公平で、コストの大部分が官僚機構に食われていることも事実である。
しかし原子的な「無縁」の個人が、最低所得だけ保障される社会は幸福なのだろうか。過疎化する地方とともに失われてゆく伝統文化は、消えるにまかせてよいのだろうか。日本の所得は高いのに、「幸福度」は世界で90位だ。自殺率は主要国で最悪の状態が10年以上続いている。単なる所得保障ではなく、人々の「縁」を再建する工夫が必要なのではないだろうか。
コメント
日本人が、新たな環境におかれた「日本」という国で、どのような「コミュニティ=人と人との縁」を作っていくかということは、この歴史の新局面で、各々の日本人がいかに自分という個人を定義していくかということに左右されると思います。
別の言い方をすれば、出身地、門閥、職業などに依拠したアイデンティティーの確立に取って代わる、精神的よりどころを再発見する必要があるのでしょう。
そういう意味で、今の時代は日本人にとって、自己の再確認の時代なのです。それは必然的に不安定な時代であることを意味しています。
そう考えると「KY」という、意味不明な流行語も、集団としての日本人が、そこにあるかなしや集団規律を暗に求めている、精神の枯渇に基づく一現象だったんではないでしょうか。
「自己啓発」ブームも同一線上にある気がします。
矢澤 豊
宗教しか思いつかないのですけど、それって本当に必要なんですかね。
共同体は必要があるから生まれるものであって、それが必要ないのなら、それが現実でしかないのではないかと思います。それを無理に作っても、部分的には幸福になっても、全体で見れば、より不幸にしかならないでしょう。
私は「解決策はない」と思います。
核家族や恋人としか深い関係をあまり築かない北米社会に住んで長くなりますが、このいう話には考えさせられます。キャリアを追ってそれといった共同体に根づかない生活を続けていますが、自分が追いつづけているものの先にあるもの、特にリタイアした後にあるものは一体なんなのだろうと疑問を感じることがあります。
アメリカの中南米移民は自分が仕事したあと、夜遅くオフィスやお手洗いの掃除なんかをするいわゆる底辺層なのかもしれませんが、一般的に大家族的な生活が残っているようであり、苦労はあるのでしょうがそれなりに肩を寄せ合って幸せそうではあるんですよね。
どちらかというと孤独死しそうな毒男の戯れ言でした。
こうした問題を考えるとき、「かくあるべき」という規範的見方と、「こうなっている」という現象的見方のどちらに重心を置いて考えるか、という整理も必要と思う。
たとえば少子化の流れの場合は、社会保障制度の持続可能性から、流れを止めるというのが暗黙のあるべき姿になっているようです。
そして日本の少子化の現象の特色に婚外子が少ないことがあるから、中絶を少なくする意見が短絡的に対策として浮かびます。
「自由と平等」を求めて、近代はそれなりの成功をおさめたが、「博愛と連帯」については模索中なのでしょうか。
村落のようなものでは、生計も安全も、密接につながっていたのかもしれないが、国家が国防と社会保障・セイフティーネットを一手に引き受け、生計の糧は会社に頼るモデルでは「博愛と連帯」に少々ミクロな部分で無理が生じているのでは。
もしかすると「自由と規律」のように、個人の自立と責任としての「連帯」がファッショを拒絶しつつ必要では?
「縁」の必要性は誰もが本能的に感じていることではないでしょうか。
「KY」と称して一部の人を排除するのは、それによって周りの人との連帯を暗黙の内に確認し合いたいからではないでしょうか。
ですから、KYなる言葉も決して意味不明ではないように思います。
日本人に特有なのは、連帯関係の確認作業を全て「暗黙」にしてしまうことではないでしょうか。
明示的な「縁」の再建が困難に思えるのも、少なくとも戦後は「暗黙」なるものを頼りにし過ぎたことが大きな原因であるような気がしてなりません。
そして、個人が原子化してお互いに暗黙の了解を得るのが一層困難になっている昨今。「縁」を求めたいと思う一方で、その方法が見つからずに途方に暮れ、ひいては「縁」の形成にひどく臆病になってしまう現代人。コミュニケーション不足と言われ続ける若者。
それもこれも、日本特有の「縁」の「暗黙性」ゆえではないでしょうか。
人々の魂の彷徨いは当分は続きそうです。
最終的には「文化」に関わる問題だと思うので、「教育」の問題として実践的に扱われることが効果的であるかと思います。高齢であったり、障害の有無などに関わらずというか、むしろそのような社会生活を営む上でハンデともなりうる部分を常に意識したものが必要かと思います。
また公共事業は、現状では不況対策である限りにおいて、むしろコミュニティーを破壊する側面のほうが強いのではないでしょうか?やればやるほど共同体が崩壊していくような感じがしています。財源構造の問題からきていると思いますが。
転勤・転職によって、「縁」というものが物理的に断ち切られることが原因として大きいのではないでしょうか。
それと、人間関係を担保に利用する保証人制度、遺産相続の仕組み、信仰心を失った葬式仏教と寺院...これらが原始的な人と人の繋がりから生まれる「縁」というものを消費してしまった、と感じています。
都市社会では、利害を共有するよりも相反することの方が多いですよね。近所とは連帯感よりも、不愉快感の方が高かったとか。
disequilibriumさんのいうように、共同体はただ人が集めればいいのではなくて、利害が共通するなど「理由」があって初めて成立しますね。
ネットのようなコミュニケーションテクノロジーがいくら進んでも、縁を供給出来ていないのはコミュニケーション自体を目的に集まっても流動性に勝てる「理由」がないからかもしれませんね。縁と拘束は表裏一体ですから、縁が復活するには拘束を許容できる位の理由がいるのでしょうが・・・・・コミュニケーションテクノロジーはむしろ流動性を高め、これを壊す尖兵だったり・・・・
とっても難しいですね。縁が自然に復活することも、人為的にデザインされることも想像ができないです。。
戦争のような圧倒的な外圧でもあると変わるのかも?
上野千鶴子先生の「おひとりさまの老後」が少し前ベストセラーになってましたね。ひとりで迎える老後にどう向きあうのか、取り敢えずは個人レベルで考えるしかないみたい。
なるほど.. 以前はそういうコミュニティなるものがあったということなんですね~。
しかしそれは、形成している各自が勝手に関わり合っていたり、必要に迫られていたりしたのではないでしょうか?
“形が先にある”とはとても思えません。
そして、文化・慣習・周囲との関わりというのは、人生の先輩方々の姿を見て、そして直接指導されてリレーされてきたものなんじゃないかと思います。
また、現行の社会福祉のカタチと負の所得税のような形態を比較した場合、コミュニティと呼ばれる部分に何ら変わる部分はありません。
そもそも、自身の親を人に世話してもらう時点で既にそのような部分に疑問が生じます。この部分.. 必要や当人らの要望というものが“あるべき形態”のようなものにまさっていることを示しているようにも思います。
社会保障の受給とバーターで、社会参加させることを提案します。
ニート手当て(ベーシックインカム)を支給するなら、
町内自治・消防団に参加させるべきだ。
高校無償化(ニート対策)の対価としての社会参加は是非設定して欲しいものだ。職業訓練等を含め。
社会参加と言っても・・・・
その社会の中も外も空虚でしたって話ですよね?
自治への参加とかは地域全体へ役に立つことはあっても、それが池田先生の言うような意味での幸福度を供給できるとは思えない。ましてや何かとバーターに強制されるものなら、なおさらですね。それでは、適当にやり過ごされるだけでは。
ここで議論する多くの人間が、まだ「かつてあった社会」を参照できる年代と思います。
しかし、今のように機能分化と小宇宙化が進んだ社会で育つ子どもたちはどう感じているのかなって思います。
「縁」がなくて寂しいという感情ももしかしたら年寄りの感傷かもしれないのかなとか。かくいう私も、すでに核家族が当然の世代ですが。
*12
>私も、すでに核家族が当然の世代ですが。
つまり、そういうことです。そういう社会風潮でそだった世代なので、「頭が固い」のです。
社会参加させるのは、「教育」の為です。
「共同体」「相互扶助」の関係性で「幸福感」が得られないことが不幸なのですよ。都市市民(アーバンなライフスタイル)として「洗脳」された世代だからです。
「勤労」による社会参加は、新(現)憲法の精神です。
>適当にやりすごす 方が、何もしないより遥かにマシですよ。災害避難訓練と同じことです。
このさき過密する都市生活(スラム)で治安維持するつもりなら、なおさら「共同体」意識が必要になります。
「無縁社会」という番組の問題提起は分かりますが、だからどうしろと言うのでしょうか?それには一般に通用する対策が無いというのが答えではないでしょうか?だとすると、対策が無いという事実を受け入れるしかないと思います。
少し気になるのはこの手の議論で「だから地域コミュニティが重要」だとかいった話が出てくるのですが、それはやりたい人がやればいいので税金を使ったりするのはやめて欲しいです。
自由を追い求めてその結果不幸になるのは我慢できますが、「これが幸福です」と押し付けられるのは嫌です。
・・・まあ、心配しなくてももしかしたらインターネットのような何か新しいイノベーションによって縁というものはこれまでと形を変えて存続していくのかも知れませんよ。
kkay1974さんの意見に同意ですね。
おそらく、「縁」の不足を不幸と感じる層もまた減っていくのではないかと思います。
海馬1/2さん
これは洗脳云々の問題ではなく、仕方のないことでは。
世代や生い立ちでそれぞれの原風景が異なるのは当然ですから。今の若い人には「農村」や「隣組」にはなんの記憶もないでしょう。
私はコテコテの勤労者ですが、「無縁社会」が提示する寂しさは理解できます。ニートが社会に参加しないから寂しいんだとか、そういう境遇限定の話じゃないと思う。相互扶助も共同体も国家レベルでは確かに存在しているけど、縁を体感できるほど身近ではない。「社会」の肥大がむしろ疎外を招いている気がしますが。
共同体意識と治安の関係はちょっと理解できません。
docnosukeさんのコメントのように、いわゆるスラムを構成している層の方が共同体的な面もあると思います。