湯浅誠氏が辞任した後、内閣府の参与に小野善康さんが2月26日付け任命されている。任命に際して菅副総理兼経済財政担当相は「経済運営や財政運営で知恵を貸してもらいたい」と語ったそうである(時事ドットコムの記事による)。そして、早速に知恵を借りたのか、4月12日の日本外国特派員協会における菅氏の講演内容は、小野理論のフレーバーを感じさせるものとなっている。
正直に言って不勉強で小野善康さんの著作はあまり読んでいないのだけれども、一見すると主流派経済学とは異なる主張をしているようにみえる(本人も新古典派経済学を批判している)けれども、小野さんの主張は、本当のところは標準的な経済学の論理にかなり沿ったものだという印象をもっている。
例えば、小野さんは、労働資源を遊休させておくよりも、失業者がいるなら政府が雇用して、少しでも利益のある公共事業をやればよいと主張する。
そこで、失業中のAの状態が(余暇の効用=10、お金=0)だとしよう。ほかにBがいて、お金を20もっているとしよう。その上で、[1]政府が増税をしてBから10のお金を取り上げて、Aに失業手当として分配したとしよう。このケースでは、Aの状態は(余暇の効用=10、お金=10)に変化し、Bの状態は(お金=10)になる。しかし、A+Bの総余剰額は30で変わるところがない(景気はよくならない)。
次に、[2]同じく政府が増税をしてBから10のお金を取り上げて、そのお金で公共事業を行ってAを雇用したとしよう。その公共事業からの便益は(話を簡単にするために)Bだけに帰属するものとする。このとき、Aの状態は(余暇の効用=0、お金=10)に変化し、Bの状態は(事業からの便益=X、お金=10)になる。お金の総額は、小野さんが強調するように、いずれの場合も20で変わらないが、X>10であれば、A+Bの総余剰額は増加することになる(景気はよくなる)。
すなわち、「おカネを配るだけでは景気は回復しない」のに対して、失業中の労働者の余暇の機会費用を上回る便益を社会にもたらす公共事業であればやった方がよいということになる。しかし、これは標準的な経済学にとっても何の異論もない結論でもあって、独自の小野理論ということにはならない。
ただし、気になったのは、「穴を掘って埋めさせる」ような公共事業であれば、「失業手当をわたしたりするのとも同じである」と主張されていることである(『誤解だらけの構造改革』日本経済新聞社、2001年、p.88)。穴を掘って埋めさせるだけだと、X=0だと考えられる。このとき、失業手当のケース[1]よりも、総余剰額は低下する。決して同じではない(むしろ景気は悪くなる)。
同じになるのは、失業中の余暇の効用が10ではなく、0の場合に限られる。確かに不況期における失業者の余暇の機会費用はかなり低いものだと想定できる。しかし、ゼロではないだろう。もし本当に機会費用がゼロであれば、失業中の労働者に時給1円で働くように求めたら、それに応じるはずだということになってしまう。少なくとも時給数百円は要求するはずだ(なお、この点は、以前に誰かがすでに指摘していたような記憶があるのだけれども、具体的に思い出せないので、ご存じの方がいたらご教示下さい)。
[追記:ご教示いただきました。井堀利宏さんや岩本康志さんでした。
http://www.esri.go.jp/jp/forum1/010521/gijiroku.pdf
この部分の私の議論は、彼らの指摘の二番煎じです。]
しかるに、どうも小野さんの議論では、不況期における失業者の余暇の機会費用はゼロであると想定されているように思われるところがある(私の誤解だったら、訂正をお願いします)。機会費用がゼロだったら、プロジェクトの選択に何の困難もない。少しでも利益になりそうなものであったら、損はしないので、やればよいということになる。したがって、「使い道を間違える」おそれはほとんどない。
反対に、機会費用がプラスの無視できない大きさであったら、やってはいけないプロジェクトが存在することになる。そして、その選別は決して容易なものではないとみられる。それゆえ、果たして「現実の政府」は、やってよいプロジェクトとやってはいけないプロジェクトの仕分けができるほど「賢明な存在」であり得るのかという疑問が生じることになる。この疑問に肯定的な答えを与えられるというのでなければ、とうてい積極財政論にはくみできない。
要するに、「増税をしても使い道を間違えなければ景気はよくなる」というのは、一般論としては間違っていない。しかし、「間違えなければ」といえば間違えることはなくなると思っているとすると、安直に過ぎる話で、間違っている。間違えないことをいかに担保するかという点こそが、本質的な論点である。だって、日本政府はすでに使い道を間違うことに関して大いなる実績を積み上げてきたのではないか。なのに、どうして今度は間違わないといえるのか。
コメント
間違えいなく間違えるでしょうね(笑)。いずれにせよ、予算の総組み換えだとか事業仕分けなどとまるで整合性の無いことを言い出したのは問題でしょう。子ども手当は減税と同じ効果という言い訳ができたし、農家への戸別補償もこれまでの価格支持や減反を見直すためのものであるならば正当化できましたが、その財源を増税に求めるというのでは筋違いだし、また増税したもので新規事業を起こすなんて言い出す始末では、昔の自民党や国民新党と何ら変わらないことになってしまいますね。
“「間違えなければ」といえば間違えることはなくなると思っているとすると、安直に過ぎる話で、間違っている。間違えないことをいかに担保するかという点こそが、本質的な論点である。”
“もし本当に機会費用がゼロであれば、失業中の労働者に時給1円で働くように求めたら、それに応じるはずだということになってしまう。”
おっしゃられる通りだと思います。直接支援はもう勘弁してほしい。間接支援であれば当人が希望する職業訓練(経験)機会を分業が可能な範囲で提供する支援策の検討を(必要ならCSRやNPO・NGOなどを活用)してみてはどうでしょうか(池田氏のブログの関連記事にコメントさせていただきました)。
職業訓練(経験)機会の提供支援と生活費の支援は別の枠組みで用意してはどうかと思います。同列にすることで負の循環に陥るのではないでしょうか。
わざわざ職業訓練講座を用意せずOJTのようなかたちで参加しながら学ぶというのがよいのではないでしょうか。キャリアチェンジを支援することも可能になり、中長期的には労働市場の流動化に伴う労働生産性の向上や社会に根差した目的意識の醸成による学習生産性の向上が、指導能力のある企業においては労働力を手に入れることが、そして起業支援など期待できることも多いのではないかと思います。ODA対象のPJなどでも活用できるのではないでしょうか。
非日常が次の希望(主体的に生きる目的=選択肢)をつくるのだと思いますため。
>2. eco_and_sportさん
直接支援というのは、ここでいう[1]だと思うのですが、
間接支援がそれの効用(といっても景気に対して中立)を上回るかどうかが論点だと思います。
中身のない職業訓練だとか、意味のない工事だとかよりはOJTの方がマシだとは思いますが、タダ働き奨励みたいになって、非正規労働者よりも下の扱いになってしまう気もします。
というか、底辺向けの仕事はいくらでもあるわけで、底辺向けの訓練をするのは無駄だと思うのですが・・・。底辺向けの仕事が嫌だから、底辺向けの訓練を受けて生活費をもらうという、非常に無駄なことになっているのが実態じゃないかという気がします。そんなことしても景気に対して中立以下にしかならないわけで。(要するに景気はより悪くなる)
>3. disequilibriumさん
>間接支援がそれの効用(といっても景気に対して中立)を上回るかどうかが論点だと思います。
>タダ働き奨励みたいになって、非正規労働者よりも下の扱いになってしまう気もします。
>底辺向けの仕事はいくらでもあるわけで、底辺向けの訓練をするのは無駄だと思うのですが・・・。
コメントありがとうございます。論点について同様の理解です。短期的にはdisequilibriumさんがおっしゃる通りかもしれません。でも中長期的にはどうでしょうか。
本質的に足りないのは(雇用や仕事ではなく)投資(雇用、労働)機会を国民一人一人が捕捉する力であるとし、それを育むことが課題だと理解しており書かせて頂きました。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51408131.html#comments
そのためには何よりも成長機会に身を投じる機会が重要です。
資金も指導力もあるが人が(計画より)集まらない企業、指導力はあるが資金がなくて人を集められない(計画を進められない)企業・・・いろいろな企業があるので「底辺向けの訓練をする」企業ばかりとはならないのではないでしょうか。
労働市場の機能と当事者の効果的な努力により中長期的には地位や身分の逆転現象が起きる機会を提供するのではないでしょうか。
期待できる効果の対象(問題)を取り扱った記事(リンク)をBLOGOSから拝借させていただきたいと思います。
青木理音さんの「労働のコモディティ化」http://news.livedoor.com/article/detail/4687195/
Chikirinさんの「守る組織、守る人」
http://news.livedoor.com/article/detail/4724847/
短期的に解決する案があればよいのですが。
>2. eco_and_sportさん
これは、経済学というより、政治学とか経世済民論とか進化心理学のようなものでしょう。経済学はなんにでも触手を伸ばす学問なので誤解なく言うと、「純粋経済学」と「進化心理学」の前提が議論のすれ違いになっている。
どっちにしても、麻生自民や鳩山民主、たちあがれとかには期待しないで、民間でがんばるしかない。