資本主義の反対、社会主義の反対 - 小飼弾

2010年07月01日 22:00

以下は資本主義の反対は社会主義ということを言うまでもないこととして扱っている。

言うておきますが – インタラクティヴ読書ノート別館の別館

「社会主義の教訓」と「資本主義の教訓」とは「どっちもどっち」ではありません。決定的に非対称的です。

金融日記

一般に資本主義というのは金持ち優遇で貧富の格差がはげしい社会システムだと考えられています。
一方で、社会主義とは社会全体の活力を失うものの、格差という点では平等な社会システムだと考えられています。

私も冷戦終結まではそれを疑うことすらなかった。

しかしそれからの20年で、この二つは直交するのではないかという思いをますます強くしている。

まずは言葉を見てみよう。わかりやすいので社会主義の方から。

社会・主義。それでは社会の反対ってなんだろうか?

資本、ではないよね。

国語の授業では、「社会」の反対は「個人」と教わっているはず。で、この問題に関しても国語が正しいと私は考えている。社会主義(socialism)の反対は、個人主義(individualism)。

こう考えると、社会主義って何かもわかりやすい。個人主義をまず考えてから、その反対を考えればいいので。個人主義とはなにかというと、「すべてのものは誰かの持ち物」ということ。会社もまた株という形で最終的に持ち主を判別できるので、個人主義を資本主義と混同しやすいというのもわかりやすい。

その先に進む前に、今度は資本主義を同じように考えてみよう。資本・主義。資本の反対ってなんだろうか?今度は反対語で考えるのがピンときにくいので、まず資本主義をおさらいすることにする。

Aさんは90粒の種を用意し、Bさんは10粒の種を用意しました。二人でこれを育てたところ、1万粒になりました。これをどう分けるか?9000粒をAさんに、1000粒をBさんにわけましょう。これが資本主義。

これだけ見ると、とってもフェアだ。だけど一粒も持っていないCさんが加わったら、創意工夫で10万粒になった。Cさんは何粒貰うのが妥当なのか?ゼロ?それとも9万粒?

純粋な資本主義であれば、Cさんの取り分はゼロでなければならない。Cさんは一粒も種を持ち寄らなかったんだから。しかしそれではCさんのような人は出ない。そこで渋々AさんとBさんはこういう契約を交わす。「Cに渡す分を『必要経費』として差し引き、残った分を差し出した種に応じて山分けする」。こうして経営と資本が分離された。

この時点で、資本主義はすでに純粋でなくなってしまった。しかし資本主義の発展は、この不純を認めたところからはじまった。種はあっても育てられない人と、育てられるけど種がない人が、一緒に仕事できるようになったのだから。

そしてオランダ東インド会社が出来てから四世紀あまり、誰が最も「得をしたか」といえば、Aさんのような大資本家でも、Bさんのような小資本家でもなく、Cさんのような経営者。日本の長者番付を見ても世界の長者番付を見てもそれはわかる。もし「資本主義」が「資本原理主義」のままだったとしたら、孫正義もSteve Jobsもありえない。

それでは、この純粋でもなく、資本家よりも経営者を資することになったこの「主義」を一体なんと呼ぶべきだろうか?

私はこれが「能本主義」(meritocracy)というものではないかと考えている。

  1. 資本主義の反対は、能本主義。
  2. 社会主義の反対は、個人主義。

これでものごとがだいぶすっきりする。a.は「生産されたものをどう分配するか」。b.は「すでにあるものを誰に帰属させるか」。

で、話を社会/個人主義に戻す。資本主義が、資本原理主義を捨てた時に大きく伸びたことが、個人主義においても起きたのではないか。

個人主義と社会主義の違いは、「だれのものでもない」ものを認めるかにある。「誰かのものなんて存在しない」まで行ったのが共産主義(communism)というのはおいておいて、「だれのものでもない」ものの存在価値を認めた時、個人主義も大きく伸びたのではないか。

404 Blog Not Found:嫌こそ国の上手なれ

帝政ローマの沿革を見ても、また20世紀の「先進国」の沿革を見ても、国の仕事というのは増えこそすれ減らないものだという印象を抱かざるを得ない。いづれもGDPを上回る速度で国家予算が成長しているのだ。しかしなぜか?

私民が、「やりたくない仕事」、「割に合わない仕事」を公に押しやるためではないのか?

まず真っ先に公に押しつけられる仕事が、(国内外を問わず)他人にルールを守らせることと、そのための暴力の管理。現代の政治学では、「最も小さい国家」の姿を「夜警国家」としているが、最も小さな国家においても、この「だれもやりたくないものは国へ」という原理は成り立つ。

そして社会が豊かになるにつれ、かつては私(し)が行って当然だったものも、公に移される。かつてはゴミは裏庭で焼いていたものだが、今では細かく分別するところまではとにかく、最終処分は自治体がやっている。そしてついには、幼子の教育や老親の面倒の一部まで公の仕事となって来ている。

そう。「だれのものでもない」ものに、「面倒なこと」を押し付けることによって、個人が「できること」が増えるのだ。たとえ税率が10%から倍になっても、所得も倍になれば、90だった手取りは160となって77%も増加する。

勝ったのは資本主義ではなく、能本主義と社会主義ではないのか?

しかし留意してほしいのは、それはあくまで資本主義と個人主義の都合によってそうなったということで、そしてこの二つは別に負けた訳でもなんでもない、ということ。「増加率」という点で比較すれば「経営者」と「政府」の方が大きいけれども、「絶対量」という点では資本家の取り分も個人の取り分も増えているのだから。

そしてどちらの場合にしても、実は「面倒なことを引き受ける」者が最も取り分を増やしたことを、我々は改めて再認識しておくべきなのではないか。

Dan the Individual Capitalist

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