思想の毒

岡田 克敏

 政治の世界で左翼と右翼の対立が長く続いたように、さまざまな分野で思想の違いを原因とした対立が見られます。むろん論争から望ましい解決が得られることもあり、また思想の対立によって繰り広げられる果てしない論争が出版業界を潤わせ、人々を退屈から救うという利点もあります。しかしその一方で、思想の違いは対立を激化させ、極端な場合は戦争の一因にもなるという負の面もあります。

 8月25日の朝日新聞「ザ・コラム」に載った小林慶一郎一橋大教授の寄稿文「市場システムを『価値』として守る覚悟持て」は、思想や主義を考える上で大変よい機会を提供してくれます。要旨は以下のようなものです。


『世界的な経済危機によって市場経済システムの不完全さが示され、市場経済を擁護する経済学者などは「市場経済は欠陥だらけだが、歴史上、人類が試みた他の全ての経済システムよりましだ」という。これはチャーチルの「民主主義は最悪の政治体制だ。これまで試された全ての形態を別にすれば」との言葉から来ている。
 この議論には隠された主張がある。それは民主主義と同じく市場経済システムも私たち一人一人がそのために献身するべき「価値」つまり目的なのだ、ということである。
 市場経済システムは豊かさを得るための手段ではなく、自由主義という理念の現実社会における表現形態であり、これは議会政治が民主主義の表現形態であるのと同じだ。議会政治の否定は民主主義の否定になるように、市場システムは自由主義の理念と不可分である』

 簡単に言うと、市場経済システムより優れたシステムはなく、また自由主義の表現形態であるから、市場経済システムを価値(目的)として、それに献身すべきである、ということなのでしょう。市場経済システムを価値とまで持ち上げた意見ですが、それについて考えたいと思います。

 民主主義と同様、他より優れたシステムだから手段ではなく価値(目的)であるという理屈がまず理解できません。民主主義も統治形態のひとつで、それは目的ではなく手段であって、最終目的は国民の幸福です。民主主義が実現されても国民が不幸になっては意味がありません。「手術は成功したが、患者は死んだ」と同様、あり得ないことではありません。

 小林氏はチャーチルの言葉を民主主義を反語的に礼賛したものと解釈されているようですが、私は民主主義が不効率で最悪の政治体制であるが他よりましだから仕方がない、と素直に理解すべきだと思っています。

 したがって市場経済システムは国民の生活を豊かにするための手段と考えるのが自然であり、それを価値とか目的とする考えはちょっと理解できません。また手段と考えられる市場経済システムをあえて価値(目的)とすれば、国民の豊かさという最終の価値(目的)との関係が問題になります。両者がイコール、あるいは正比例の関係であるとはとても言い切れません。

 また、市場システムは自由主義の理念と不可分であるから献身すべき価値となる、と述べています。これからは市場システムを制限する行為は自由主義の否定になるという大そうな理屈が導かれます。これは市場システムに関する現実的な議論を遠ざける可能性があると思います。

 手段である市場経済システムに献身すべきほどの大きな価値(目的)を与えることは、それに思想としての意味を与えることに他ならないと思います。しかしこのことにどんな意味があるでしょうか。

 現在、世界で市場経済システム以外の体制を採用しているのは北朝鮮などごく少数で、多くの国は市場経済システムの中で最適な形態、最適なルールを模索している状況です。そして欠点があるにしても市場経済システムがもっとも効率のよい仕組みであることはほぼ周知されたことです。したがって必要なことは市場経済システムそのものの是非ではなく、そのシステムの安定性や公平性をどうやって実現するか、また教育など市場システムになじまない分野との調整をどうするかなどの、細部の議論です。ここに市場経済システムを献身すべき価値・目的とした議論を持ち込めば無用の混乱が生じることでしょう。

 思想や主義は何かに対し常識で考えられる以上の価値があるように思わせ、それを献身的に守らせる、という面があり、それは宗教によく似ています。それは人や社会をある方向に向かわせるときに有効な方法です。しかし市場経済システムが計画経済に対するアンチテーゼとして存在しているときは思想としての役割があったかも知れませんが、計画経済がほぼ消滅した現在、その意味はありません。逆にそれ自体を価値と思わせることから生じる極端な思考が、細部にわたる現実的な議論を妨げることの方が問題です。

 思想や主義は新たな角度から光を当てることによって、物事の理解を助けるという利点がある一方、偏った視点が他の部分を覆い隠して見えなくするという負の側面をもっています。思想に強く染まってしまうと世界が別の色に見えるようで、現状認識にも偏りや歪みが生じ、議論の前提すら成り立たなくなることがしばしば起こります。それは空疎な、際限のない議論を生みます。

 思想には冷静な目を奪い、物事の正確な理解を妨げるという副作用があります。またそれは「感染力」を持ち、人から人へと伝染するという厄介な性質を備えています。というわけで、思想の持つ負の側面はもっと注目されてもよいと思う次第です。

(主義とは特定の思想に拠った立場というほどの意味ですが、ここでは思想と同じ意味で使っています)

コメント

  1. うらら より:

    >市場システムは自由主義の理念と不可分であるから献身すべき価値

    と見てふと思い出したのは、亀山郁夫の『終末と革命のロシア・ルネサンス』(岩波現代文庫)にあった、“労働者に求められるものは、たんなる労働ではなく、英雄的労働、犠牲的労働、おそらくは死の労働である”“犠牲の観念の正当性が失われてしまえば、犠牲者のヒロイズムになんらの正当化も見出すことはできなくなる。”という言葉だった。

    非正規雇用だから、主婦だからと無価値扱いをされるこんな世の中で、なお献身的に生きる意味が正直わからない者です。

    市場システムの安定性や公平性の実現を、切に願ってやみません。そうでないなら、遅かれ早かれ、私の生きる場所は無くなるでしょう。

  2. bobby2009 より:

    仰る通り、民主主義も資本主義も市場経済も、人々が幸福になる為の「道具」であって「目的」ではないという意見に賛成します。

  3. pacta より:

    社会主義傾向が強くなってきたから、自由主義思想者が危機感から先鋭化したのだと思います。
    知識層は、知的感度が高いがゆえに、状況の変化に対して過剰反応しやすいのでしょう。

  4. courante1 より:

    うららさん、bobby2009さん、pactaさん、ご意見をいただき、ありがとうございます。
    小林慶一郎氏には申し訳ないのですが、市場システムを思想にまで「昇格」させようという氏の主張を例題として、思想がもつ厄介な性質に注目して書いたものです。
    思想、宗教、精神論、どれも冷静な判断を危うくするものであり、根っこは同じだと思います。老人は頑固なためか思想には感染しにくいのですが、若い人は罹りやすいようです。  岡田克敏